HISTORICAL PERSON · 1979年没

ヘルベルト・マルクーゼ

ドイツ出身のアメリカの哲学者。フランクフルト学派の一員で、1934年にアメリカへ亡命。戦後はコロンビア大学で政治哲学を教えた。

生涯
1979年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / シュタルンベルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ヘルベルト・マルクーゼは、1898年7月19日、ベルリンで、カールとゲルトルートの子として生まれた哲学者・社会学者である。一家はドイツのユダヤ系上流市民層に属し、ドイツ社会によくなじんでいた。ベルリン西部のシャルロッテンブルクに移り、1911年から1916年まで同地のギムナージウムで学んだ。1916年にドイツ帝国軍に徴兵されたが、第一次世界大戦中はベルリンの軍の厩舎で働いただけで、兵役はすべてドイツ国内で終えた。勤務の傍らベルリン大学の講義に出る許可も得た。1917年にドイツ社会民主党へ入り、1918年の十一月革命では兵士評議会の委員に選ばれたが、1919年1月、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの殺害に抗議して離党した。

1919年にベルリン大学でドイツ文学を学び、1920年にフライブルク大学に移って、文学、哲学、政治、経済に取り組んだ。1922年にドイツの芸術家小説を扱った論文で博士号を得たあと、ベルリンで出版の仕事に就き、2年後に数学者のゾフィー・ヴェルトハイムと結婚した。1928年にフライブルクに戻り、エドムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーのもとで、ヘーゲルとマルクスを研究した。ハイデッガーの指導で教授資格論文を書き、1932年に『ヘーゲルの存在論と歴史性の理論』として出版した。しかし、ハイデッガーからユダヤ人であるためフライブルクでは認められないと伝えられ、論文は正式には提出されなかった。同じ1932年には、新たに公刊されたマルクスの草稿の解釈も発表した。ハイデッガーが1933年に国家社会主義ドイツ労働者党に入ると、その発言を哲学への裏切りと見て、二人は決定的に離れた。

1933年、ドイツを離れてジュネーヴに行き、フランクフルト大学の社会研究所に加わった。フランクフルト学派の一員として、国家独占資本主義という新しい段階の理論を作り、ナチズムの分析と批判を行った。1934年6月にアメリカへ亡命し、1942年まで社会研究所のコロンビア大学の支部で働き、同年ワシントンに移って戦時情報局に勤め、第二次世界大戦中は対ナチス政策に協力した。1940年にアメリカの市民権を得た。1941年に『理性と革命』を刊行した。戦後の1952年からコロンビア大学で政治哲学を教え、1954年から1965年までブランダイス大学、1965年からはカリフォルニア大学サンディエゴ校の教授を務めた。

1955年の『エロス的文明』はフロイトの理論を批判的に取り入れながら人間解放の構想を展開し、1964年の『一次元的人間』は否定的な契機を失った全体主義的な管理社会を批判した。1969年の『解放論の試み』では、アジア・アフリカの解放には共産勢力の強化より資本主義国の弱体化が必要と訴えた。1965年の『純粋寛容批判』では、社会的強者の不正に無力な消極的寛容を批判し、弱者を虐げる権力を容認しない「抑圧的寛容」を主張した。1978年には『美的次元』を著し、「否定の哲学」を根底に据えた思想家として、1960年代の新左翼の父と呼ばれる。1979年7月29日、ドイツに帰郷中に脳出血のためバイエルンのシュタルンベルクで急逝した。遺灰は2003年にアメリカで見つかり、ベルリンの墓地に埋葬された。

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