伝記
ビルマの初代マウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンは、1900年6月25日、ウィンザーのフロッグモア・ハウスで、初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとヴィクトリアの次男として生まれた。祖先はドイツ貴族のバッテンベルク家で、のちに英語風にバッテンバーグと呼ばれ、改名前の姓はこれである。ヴィクトリア女王の曾孫でもある。幼少時は「ディッキー」と呼ばれた。1913年に海軍の学校に入り、第一次世界大戦が始まった後の1916年7月、16歳で軍艦「ライオン」に配属された。1917年に姓をドイツ風のバッテンバーグから、イギリス風のマウントバッテンに改めた。その後も「レナウン」や「レパルス」などに乗務し、「レパルス」の時代には日本やインド帝国も訪れている。
1939年9月に第二次世界大戦が始まると、海軍大佐となり、第5駆逐艦戦隊の司令として駆逐艦「ケリー」に乗り組んだ。同艦が1941年のクレタ島の戦いで沈没するまで勤務し、この間に「マウントバッテンピンク」という迷彩を考案している。空母「イラストリアス」の修理に同行してアメリカに渡った際は、真珠湾を訪れ、航空機の攻撃に対する備えが不十分だと指摘した。1942年2月27日から28日にかけてのバイティング作戦では、ドイツのレーダー「ヴュルツブルク」の心臓部を入手し、操作員らも捕らえてドイツの技術の実情を把握した。同年8月19日にはディエップ港奇襲作戦を指揮した。大損害を蒙ったが、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデーでは10人が助かった」と回想している。1943年1月のカサブランカ会談に出席し、11月のカイロ会談には連合軍の東南アジア軍司令官として出席した。
1943年8月に創設された東南アジア地域連合軍の総司令官に就任し、ビルマの戦いで日本軍との戦いを指揮した。日本軍がインパール作戦に失敗すると、1944年からイギリス軍が攻勢に転じ、1945年5月にアウンサンと会談して、ビルマ国民軍が連合軍の指揮下に入ることで合意した。マレーとシンガポールの奪回に向けたジッパー作戦を計画していたが、日本の降伏で全作戦の中止を命じ、シンガポールのシティ・ホールで板垣征四郎を引見して降伏文書を交わした。1946年に帰国してガーター勲章を受け、ビルマのマウントバッテン子爵に叙せられた。
その後インド副王兼総督に転じ、本国から「インドの統一を保ち撤退せよ」と命じられて赴任した。ガンディー、ネルー、ジンナーらと会談を重ねるうちに、民族と宗教の対立の現実に直面し、パキスタンの分離を唱えるジンナーに押し切られる形で、1947年のインド・パキスタン分離独立への道筋をつけた。分離後はインド連邦総督に横滑りし、1948年6月21日に座を譲った。帰国後は地中海艦隊司令長官や第一海軍卿、国防参謀総長などを歴任した。1979年8月27日、休暇中のアイルランド北西部のドネゴール湾で、ヨットで出航した直後、エンジンに仕掛けられたIRA暫定派の爆弾が爆発し、孫たちとともに死亡した。79歳だった。実行犯は終身刑となった。退役後は維持費を捻出するために自宅を一般公開しており、1975年には、第三次世界大戦が核兵器で戦われるなら第四次は弓矢で戦われるだろうと述べて、核戦争の危険を警告していた。葬儀には、本人の遺言により、かつて戦った日本人への招待はなかった。
同じ年に亡くなった人物
- カール・ラインムート (1979年没)
- ドリス・ケニヨン (1979年没)
- Ermindo Onega (1979年没)
- Alessandro Frigerio (1979年没)
- ヴァン・マッコイ (1979年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。