HISTORICAL PERSON · 1979年没

セシリア・ペイン=ガポーシュキン

イギリス生まれのアメリカの天文学者。恒星の組成の大部分が水素であることを示し、1956年に女性として初めてハーバード大学天文学部の教授となった。

生涯
1979年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ケンブリッジ)
出生地
イギリス連邦(ウェンドーヴァー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

セシリア・ペイン=ガポーシュキンは、1900年5月10日、イギリスのバッキンガムシャーで生まれた天文学者である。父エドワードは音楽家で歴史家、弁護士でもあり、母エマは画家だった。セシリアは長女で、2年後に弟ハンフリーが、1904年に妹レオノーラが生まれたが、父は彼女が4歳のときに亡くなった。幼いころから好奇心が強く、天文学との出会いは5歳のころ、乳母車に乗って母と移動中に流星を見たことだった。母にその現象を教わって、天文学に興味を持った。それ以上に植物学にも熱中し、大叔母ドロシアの影響で、近くの丘陵で見つけた珍しい植物の目録を作った。8歳のとき、珍しい花をハチランだと判断して報告し、のちに「私の科学者としての人生はここから始まったと思う」と述べている。

12歳のころ、弟の教育のため一家はロンドンに引っ越した。カトリックのセント・メアリーズ・カレッジに入ったが、友達ができず、なじめなかった。最年少の学年でテストの成績が全校2位となり、校長が上級生を叱責したため、逆恨みされた。学校は科学に力を入れていなかったので、家で一人で本を読んで知識を得た。17歳の誕生日の数日前、学校側にしてあげられることはもうないと告げられ、退学した。ケンブリッジ大学で学びたかったが資金がなく、奨学金を得るため、1918年にセントポールズ女子校に入った。創設者のグレイは彼女の能力を認めて科学を奨励し、セシリアは「私はもう孤独にならない」と語った。作曲家ホルストも教師で、音楽家になるよう勧めたことがあったという。1919年に奨学金を得て、ケンブリッジ大学ニューナムカレッジの試験に合格した。

大学では植物学、化学、物理学を選んだ。植物学の講義は探求心を満たさず幻滅したが、1919年12月2日にアーサー・エディントンの報告会を聞き、運命が決まった。エディントンは相対性理論と、同年5月29日の日食観測について報告した。ニューナムの学生に割り当てられた席は4席だったが、病気の1人から券を譲られた。内容をノートに写し、興奮で3日間眠れなかったという。彼女は物理学の道を選び、ボーアやラザフォードらの講義を受けたが、教室に入ると足を踏み鳴らされた。ケンブリッジ天文台でエディントンと出会って天文学者になりたいと告げ、天文台の図書室への出入りを許された。当時のイギリスでは女性が研究職に就くことはできず、教師になるのは「死ぬよりもっとひどい運命」だと思っていた。アメリカの天文学者ハーロー・シャプレーの講義に連れ出され、その下で働きたいと伝え、1923年に学士号を得た後、ハーバード大学の奨学金を得た。同年9月、23歳でイギリスを離れ、アメリカでの生活を始めた。

ハーバード大学天文台ではメグナード・サハの電離公式を実際の天体に当てはめる研究を選び、恒星の組成の大部分が水素であるという結論を得た。しかし、当時は恒星の元素の存在比は地球と同じと考えられていた。1924年に論文を送って検討を依頼したヘンリー・ノリス・ラッセルからは、水素が金属の100万倍もあるという結論は受け入れられないと返事が来た。1925年、ラドクリフ・カレッジの博士号の論文を書き上げ、ハーバード大学天文台で初の博士論文となった。論文は、恒星に水素とヘリウムが多量に含まれると述べつつ、ほとんどがそれらでできているという結果は「現実のものではない」と記した。娘のキャサリンによれば、セシリアはこの判断を後々まで後悔していたという。1956年には女性として初めて同大学の天文学部の教授となり、1979年12月7日に亡くなった。

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