HISTORICAL PERSON · 1979年没

ズルフィカール・アリー・ブットー

パキスタンの政治家。1971年から大統領、1973年から首相を務め、社会主義的政策や核開発を進めた。1977年のクーデターで失脚し、1979年に死刑となった。

生涯
1979年没
死亡地
パキスタン共和国(パンジャーブ州 / ラーワルピンディー)
出生地
パキスタン共和国(ラルカナ)
出典
世界地図
パキスタン共和国(パンジャーブ州)

伝記

ズルフィカール・アリー・ブットーは、1928年1月5日、現在のシンド州ラールカーナー近郊で、地主で政治家の三男として生まれたパキスタンの政治家である。パキスタン人民党の創立者で、1971年から1973年まで大統領、1973年から1977年まで首相を務めた。一家は1947年のインド・パキスタン分離でインド側の土地を失ったが、シンドの所領のおかげで、パキスタンでも有数の裕福な家であり続けた。ボンベイで教育を受け、パキスタン建国運動にも関わった。アメリカでは南カリフォルニア大学とカリフォルニア大学バークレー校で政治学を学んだ。さらにオックスフォード大学で法学を修めて1953年に卒業し、帰国後はカラチで弁護士として働いた。1951年にはカラチ在住のイラン人富豪の娘ヌスラト・イスパハーニーと結婚し、1953年に長女ベーナズィールが生まれるなど、二男二女をもうけた。

1957年に国連代表団に最年少で加わり、1958年にはアイユーブ・ハーン大統領により最年少の閣僚に任命され、ソ連との援助交渉などで頭角を現した。1963年に外相になると、西側寄りだった政策を転換し、アメリカと一線を画して、中国やサウジアラビアと軍事・経済面の協力を結んだ。中国とは領土問題を決着させ、東南アジア条約機構からは離脱した。他のイスラム諸国との関係も緊密にして、非同盟政策を進めた。1965年にカシミールの領有権をめぐるインドとの軍事衝突が起きると、ブットーはインドを非難したが、両国は大国の圧力で国連の仲介による停戦に同意した。和平交渉で捕虜交換と撤兵に合意したことに国内世論は反発し、ブットーも大統領に批判的になって、1967年に辞任した。その後、ラホールでパキスタン人民党を結成した。

1970年12月の選挙では、人民党が西パキスタンの多くの議席を占めたが、東パキスタンではムジブル・ラフマンのアワミ連盟が多数を制した。混乱の中で1971年3月に東パキスタンでバングラデシュの独立が宣言され、軍による弾圧が始まった。インドが介入した第三次印パ戦争でパキスタン軍は12月16日に降伏し、ヤヒヤー・ハーンが辞任すると、ブットーが大統領兼戒厳司令官となった。ヤヒヤー・ハーンを軟禁し、死刑判決を受けていたムジブル・ラフマンを釈放した。1972年1月には主要産業の国有化を宣言し、労働者の権利を拡大して、地主の権力を制限し、農地解放を実施した。同年7月にインドのインディラ・ガンディー首相とシムラー協定に調印し、バングラデシュを承認した。一方で核開発に着手し、カナダの協力で原子炉を建設した。1973年4月に新憲法が発効し、8月には大統領職を譲って自ら首相になった。

しかし官僚主義が広がって経済効率は低下し、支持は低落した。野党や党内との対立が激しくなり、地方の混乱を鎮圧した軍には残虐行為の非難も起きた。1977年に選挙が行われたが、野党連合は不正を訴え、7月5日、ジア=ウル=ハク将軍を中心とする軍により、ブットーは閣僚とともに逮捕され、戒厳令が出された。ブットーはその後、政敵カスーリー暗殺に関与した容疑で裁判にかけられ、軍のでっち上げだと主張したが、ラホール高等裁判所は1978年3月18日に死刑を宣告した。1979年2月に最高裁判所への訴えも却下され、国際的な圧力にもかかわらず、4月4日に絞首刑が執行された。遺体は故郷のラールカーナーに埋葬された。この裁判は、ジア=ウル=ハクの主導による政治的裁判といわれる。娘のベーナズィール・ブットーは、のちにパキスタンの首相を務めた。

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