伝記
朴正煕(パク・チョンヒ)は、1917年11月14日に生まれ、1979年10月26日に暗殺された大韓民国の政治家・軍人である。軍での最終階級は陸軍大将。1961年5月の軍事クーデターで国家再建最高会議議長となり、民政移管後の1963年から1979年まで第5代から第9代の大統領を務めた。日本統治時代には、創氏改名による日本名の高木正雄を名乗っていた。
日本統治下の朝鮮、慶尚北道善山郡亀尾面の貧しい農家に、5男2女の末子として生まれた。父の朴成彬は科挙に合格しながら、韓国併合後に没落し、墓守をしていた。母の白南義は勤勉な人と見られていた。2歳のとき火鉢に落ちて両腕にやけどを負い、その跡が生涯残ったという。自宅から6キロ離れた小学校に通い、空腹と長い通学で体を損ね、夜盲症になったこともあった。のちに酒に酔うたび、友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語ったという。小学校を優等で卒業し、教師の薦めで大邱師範学校に進んで1937年に卒業した。軍事教練に強い関心を持ち、卒業後は聞慶の公立普通学校で教員を務めた。やがて満洲国軍の将校を志し、満洲国陸軍軍官学校に学んで、1944年に卒業した。同年に少尉に任官し、中尉で内モンゴルにて終戦を迎えた。
戦後は南朝鮮国防警備隊の士官学校に入って少尉に任官し、国軍の再編後も軍に残った。1948年の麗水・順天事件の後、南朝鮮労働党員であったことが粛軍運動で発覚して逮捕された。軍法会議にかけられたが、党内の情報を提供したことや、能力を評価した将校の助命嘆願もあって、軍籍の剥奪にとどまる。軍の嘱託として勤務を続け、朝鮮戦争の勃発で軍籍を回復し、1950年には陸英修と再婚した。二人の間の次女の朴槿恵は、のちに第18代大統領となった。朝鮮戦争の終結時には大佐に昇進し、1958年に少将、1960年末に第2軍の副司令官となった。李承晩の不正選挙に端を発した四月革命ののち、第二共和国は議会の混乱で復興も工業化も進まず、軍内の腐敗も深刻だった。1961年5月、改革派の将校を率いてクーデターを決行し、軍事政権を成立させる。民政移行の後も実権を握り続け、民主共和党による事実上の独裁体制を築いた。
日韓基本条約を結んで国交を正常化し、アメリカの要請で1964年にベトナムへ軍を派兵した。日米の経済支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成し、韓国は北朝鮮を経済的に追い越して、最貧国の層から脱した。その一方で民主化運動を徹底して弾圧し、拷問や政治犯の投獄も頻繁に行った。1972年7月には北朝鮮の金日成首相と南北共同声明を発表したが、10月17日に非常戒厳令を宣布し、憲法を改めて長期政権を可能にした(十月維新)。1968年と1974年にも暗殺を図られ、1974年の文世光事件では妻の陸英修が命を落とした。1973年には、日本に滞在していた民主化運動家の金大中が拉致される事件も起きている。1979年10月18日、釜山一円で民主化デモ鎮圧のための非常戒厳令を宣布し、その直後の10月26日、側近の中央情報部長・金載圭によって、車智澈大統領室長とともに暗殺された。
同じ年に亡くなった人物
- Zuheir Mohsen (1979年没)
- スタイン・ロッカン (1979年没)
- エリザベス・ライアン (1979年没)
- Vincenzo Cuccia (1979年没)
- ラルフ・グリーンソン (1979年没)