伝記
エルンスト・ボリス・チェーンは、1906年6月19日にベルリンで生まれたドイツ生まれのイギリスの生化学者である。父ミヒャエルは、化学を学ぶためロシア帝国のモギリョフからドイツに来たユダヤ人で、化学製品を扱う化学者であり実業家であった。母マルガレーテはベルリンの出身である。1930年にベルリン大学で化学の学位を取った。生涯の友となるアルベルト・ノイベルガーとも、1930年代にベルリンで知り合っている。
しかしナチスが政権を握ると、ユダヤ人の血を引く自分はドイツでは安全に暮らせないと考え、1933年4月2日、わずか10ポンドを持ってイングランドに渡った。遺伝学者で生理学者のJ・B・S・ホールデンの助けでロンドンの大学病院に職を得て、数か月後にケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジの博士課程の学生に受け入れられ、フレデリック・ホプキンズの下でリン脂質の研究を始めた。1935年にはオックスフォード大学の病理学の講師となり、ヘビ毒、ガン細胞の代謝、リゾチームなど、生化学の様々な課題に取り組んだ。1939年4月にはイギリス国籍を得ている。
同じ1939年から、ハワード・フローリーとともに、微生物がつくる天然の抗菌物質の研究を始めた。この過程で二人は、9年前にペニシリンを発見していたアレクサンダー・フレミングの研究をふたたび取り上げることになった。ノーマン・ヒートリーの重要な技術的助力を得て、チェーンとフローリーはペニシリンの治療効果と化学組成を明らかにし、アオカビから殺菌作用のある成分を分離して濃縮する方法も見いだした。チェーンは純粋分離と濃縮の研究も行い、1942年にはエドワード・エイブラハムとともに、ペニシリンのベータラクタム構造を予測した。この構造は、1945年にドロシー・ホジキンのX線結晶構造解析で確かめられた。この研究により、チェーン、フローリー、フレミングの3人は1945年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。
終戦を迎えると、チェーンは母と姉妹がナチスによって殺されたことを知った。戦後はローマの高等健康研究所に移り、1964年にインペリアル・カレッジ・ロンドンの生化学教室を創設して教室の長として戻り、退官までそこで発酵技術を専門に研究した。1948年にはアン・ベロフと結婚している。彼女はマックス・ベロフやノラ・ベロフのきょうだいで、自身もすぐれた生化学者であった。人生の後半には、ユダヤ人としての自覚が非常に重要なものになった。1954年にパウル・エールリヒ・ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受け、同じ年にイスラエルのワイツマン研究所の理事会に加わり、のちに幹部会議の一員となった。子供たちにはユダヤ教を信仰させ、数多くの課外教育を受けさせた。その考えは、1965年に世界ユダヤ人会議で行った講演「なぜ私はユダヤ人か」によく表れている。
ノーベル賞を受けた後も、1950年の法律のためアメリカへの入国を拒まれ、1951年には2度ビザを断られたことがある。1948年に王立協会の会員となり、1969年にナイトに叙された。退官後はアイルランド西部に移り、メイヨー県で余生を過ごした。1979年8月12日、キャッスルバーのメイヨー総合病院で死去した。インペリアル・カレッジの生化学の建物とキャッスルバーの道路に、その名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- カトリーヌ・ヘスリング (1979年没)
- Mikhail Ogonkov (1979年没)
- チャールズ・カフリン (1979年没)
- チャールズ・ミンガス (1979年没)
- Ita Rina (1979年没)
同じ地域に関係する人物
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- パトリック・ブラウン (1790年没)