HISTORICAL PERSON · 1979年没

ハフィーズッラー・アミーン

アフガニスタンの政治家。コロンビア大学に留学し、1979年にタラキーを失脚させて革命評議会議長(国家元首)に就いた。

生涯
1979年没
死亡地
アフガニスタン・イスラム共和国(カーブル州 / タジベク宮殿)
出生地
アフガニスタン・イスラム共和国(パグマン)
出典
世界地図
アフガニスタン・イスラム共和国(カーブル州)

伝記

ハフィーズッラー・アミーンは、1929年8月1日にカーブル近郊のパグマーンで生まれたアフガニスタンの政治家で、第2代の革命評議会議長を務めた。パシュトゥーン人で、ギルザイ部族連合のハルティ部族の出身である。日本のメディアでは、アミンとも表記されていた。父は役人で、獄長だったとする資料もあるが、1937年、ハフィーズッラーが8歳のときに亡くなった。小学校の教師だった兄アブドゥッラーのおかげで、小学校も中等学校も通うことができ、カーブル大学に進んだ。数学を学び、カーブルの教員養成学校も卒業して教師となり、のちにその学校の副校長、さらにカーブルの名門イブン・シーナ高校の校長となった。

1957年にはニューヨークのコロンビア大学に留学した。ここでマルクス主義に惹かれるようになり、1958年に大学の社会主義進歩クラブの会員になったという。帰国するとカーブル大学で講師を務め、再びイブン・シーナ高校の校長となった。この時期に、共産主義者のヌール・ムハンマド・タラキーと知り合った。1962年に再び留学し、ウィスコンシン大学での研修に登録して、この間に急進化したとされる。コロンビア大学の大学院で博士課程に学んだものの、学業よりも政治に力を入れ、1963年にはアフガニスタン人学生協会の代表になった。この協会はアジア財団の資金を受けていたが、同財団は中央情報局の隠れみのだったとされる。1965年に帰国した。

帰国したとき、アフガニスタン人民民主党は創立大会を終えていた。アミーンは1965年の総選挙に同党から出馬し、50票に満たない差で落選した。1966年から同党の党員となった。1968年には党内のハルク派が彼を「ファシスト」呼ばわりして、党員候補に格下げした。1969年の選挙では、ハルク派としては唯一当選して下院議員となり、党内での地位を高めた。1977年には党中央委員会委員となった。1978年4月のサウル革命では主たる組織者を務めて、ダーウード政権を倒した。この革命でできた親ソ連の国家では、タラキーに次ぐ第2の実力者となり、反革命とされた人々の大規模な弾圧を進めた設計者でもあった。1979年3月29日から副首相を務めた。

タラキーとの対立が深まり、1979年9月14日にタラキーを襲撃して失脚させ、のちに処刑を命じたとされる。9月16日、革命評議会議長、人民民主党中央委員会書記長に就いた。就任当初は聖職者に穏健な政策を取ったが、効果がないとわかると大規模な弾圧に転じた。イスラム原理主義者はジハードを宣言し、南部のパクティヤー州は事実上ムジャーヒディーンの支配下に入った。政権は反乱の拡大や軍からの脱走を止められず、アメリカに友好的な態度を示したが、アメリカ大使アドルフ・ダブスの暗殺への関与で、ワシントンでの評判は大きく傷ついていた。パルチャム派への粛清を続けたため、ソ連のブレジネフ政権から不満を持たれ、不信を買った。1979年12月27日、ソ連が1978年の友好条約を根拠に介入し、特殊部隊が大統領宮殿を襲撃して、嵐333号作戦のなかで殺害された。国家元首の座にあったのは、3か月余りにすぎなかった。

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