伝記
アナスタス・イヴァノヴィチ・ミコヤンは、1895年11月25日、ロシア帝国領アルメニアのサナイン村(現在のアラヴェルジ市の一部)に、大工の子として生まれたソビエト連邦の政治家で、アルメニア人である。弟には戦闘機の設計者アーテムがいる。トビリシの神学校で教育を受け、1915年にロシア社会民主労働党(後のソビエト連邦共産党)に入党した。カフカースにおける革命運動の指導者として頭角を現し、1917年にロシア革命が起こると、バクーで運動を指揮した。1918年には、介入してきたイギリス軍に拘束されたが、まもなく釈放され、1920年にバクーの労働者蜂起に加わった。
1923年に党中央委員に選ばれ、1924年にレーニンが死ぬと、その後の権力闘争では一貫してスターリンを支持した。1926年に党の政治局員候補となり、外国貿易・国内商業の人民委員に就任して、貿易の組織化や欧米からの缶詰製造計画の導入を進めた。1928年に第一次五か年計画が始まると、穀物調達の責任者として飢餓輸出を強行し、外貨獲得のために貴金属や絵画も外国に売却した。1930年代は補給・食品工業・対外貿易を担当し、1935年に政治局員、1937年には副首相となった。第二次世界大戦では、前線への物資補給システムを築く責任者を務め、1942年に国家防衛委員会の一員に加わった。戦後も副首相として外国貿易と国内商業を担当し、復興を担って「赤い商人」と呼ばれた。1949年からは毛沢東との間で、中ソ友好同盟相互援助条約に向けた秘密交渉にも当たった。
1953年3月5日にスターリンが死ぬと、マレンコフ首相のもとでも外国貿易大臣にとどまった。カフカース出身のため、当初は同じ出身のベリヤの派閥と見られていたが、フルシチョフがベリヤの排除に動くとこれを支持し、1956年にフルシチョフがスターリン批判を始めるとそれも支持して、批判の先頭に立った。以後、第一副首相となり、1956年10月のハンガリー動乱では、軍事介入は国際的な非難を招くとして自殺すらほのめかして反対したとされるが、特派大使として現地に派遣され、収拾に当たった。1957年のいわゆる「反党グループ」事件では、一貫してフルシチョフを擁護し、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチが失脚した。日本やアメリカ、メキシコなども歴訪し、日本には1961年と1964年に訪れた。1961年には松下電器産業の工場を視察して松下幸之助と会見し、1964年の朝日新聞社訪問では「ここが各国の共産党の悪口を言うところか」と冗談を飛ばした。「赤いセールスマン」とも揶揄された。
1963年にはケネディの葬儀に参列し、ジョンソン大統領と会談した。1964年に最高会議幹部会議長となったが、同年10月にフルシチョフが解任されると、幹部会員で唯一解任に反対し、第一書記のみの解任と閣僚会議議長への留任という折衷案を出したものの、否決された。失脚直後のフルシチョフには何度か励ましの電話をかけたが、電話は盗聴され、内容はブレジネフに報告された。1965年に幹部会議長を辞任し、事実上自らも失脚した。1971年にフルシチョフが死去した際は、新聞の小さな記事で初めてそれを知り、葬儀には使者と花輪を届けた。1978年10月21日に82歳で死去し、フルシチョフと同じモスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- ガートルード・メアリー・コックス (1978年没)
- 馬堅 (1978年没)
- ハリー・ウィンストン (1978年没)
- Hermann Hanggi (1978年没)
同じ地域に関係する人物
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- Evald Ilyenkov (1979年没)
- ヴァシーリー1世 (1425年没)
- アンナ・エゴロワ (2009年没)
- ミハイル・スコベレフ (1882年没)