伝記
高順は、後漢時代末期の武将で、呂布の配下として知られる。没したのは建安3年12月24日で、西暦では199年2月7日にあたる。出身は上党郡とされる。その事績は『後漢書』や『三国志』の呂布伝、およびその注に引かれる『英雄記』『九州春秋』などに散見される。人となりは清廉潔白で威厳があり、寡黙で、酒は一切飲まず、贈り物も受け取らなかった。率いた兵は700人であったが、あえて千人と称し、鎧兜や武具はいずれも精錬されていた。攻撃した敵を必ず打ち破ったため、その部隊は「陥陣営」の異名をとった。呂布の配下では最も有能な指揮官とされる。
建安元年(196年)6月、呂布が下邳を劉備から奪って間もなく、呂布軍の郝萌が反乱を起こした。袁術と、呂布軍の陳宮が背後で画策したともいわれる。都督であった高順は、逃れてきた呂布を自らの兵営にかくまった。呂布が反乱軍の首領は河内の訛りだと告げると、高順はそれは郝萌に違いないと答え、素早く郝萌の部隊に弓矢で一斉射撃を浴びせて反乱を鎮めた。郝萌は逃亡したが、部下の曹性に裏切られ、高順によって討ち取られた。
建安2年(197年)、開陽に駐屯していた臧覇が、琅邪国相の蕭建を撃ち破って莒を占領した。このとき、すでに蕭建を味方に取り込んでいた呂布は怒り、臧覇を攻撃しようとした。高順は、董卓を誅殺した威光で周囲を従えるべきであり、軽々しく軍を動かして敗れれば名声を損なうと進言した。しかし呂布は聞き入れず、臧覇を攻めたものの撃退されて下邳へ引き返した。のちに呂布と臧覇は和睦している。高順は、呂布が物事を始めるときに細部を考えず、成功か失敗かの分かれ目でいつも誤った決断をすると、たびたび諫めた。呂布はその忠誠を認めながらも、忠告を容れることができなかったという。呂布は次第に高順を疎んじるようになり、郝萌の反乱の後はその傾向がさらに強まった。呂布は縁戚の魏続に高順が指揮していた兵をすべて奪って与え、戦いが起きてからわざわざ高順に魏続配下の兵を指揮させた。それでも高順は終生、恨みを抱かなかったという。一方で、陳宮とは仲が悪かった。下邳の攻防では、呂布は陳宮と高順に城を固めさせ、自ら兵を率いて曹操の糧道を断とうとしたが、妻から二人の不和を指摘されて出撃を断念している。
建安3年(198年)春、呂布は袁術と誼を結んだ。劉備が勢力を築きつつあることに加え、呂布が軍馬を買うための金銭を劉備が手に入れたこともあり、高順は中郎将として、北地太守の張遼とともに劉備を攻撃し、9月には小沛城を攻め落として劉備の妻子を捕らえた。救援に駆けつけた曹操軍の夏侯惇とも戦い、これを撃破している。しかし曹操自らが東征の軍を起こすと、呂布は三戦三敗して下邳城内に追い詰められた。同年12月、侯成・宋憲・魏続らが高順と陳宮を捕らえて曹操に降り、呂布もまもなく降伏した。高順は呂布・陳宮らとともに、曹操の命令で絞首に処された。その首は許の市場でさらされた後、埋葬されたという。
小説『三国志演義』では、呂布が曹操から兗州を奪う場面で初めて登場し、濮陽での戦いでは曹操をあと一歩のところまで追い詰めるが、典韋に撃退される。沛での夏侯惇との一騎討ちでは数十合打ち合って及ばず逃げ、曹性が夏侯惇の目を射たことで窮地を脱し、のちに夏侯惇を撃破する。最期は下邳で呂布とともに捕らえられ、命乞いもせず、呂布に殉じて斬首されたと描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- 陳宮 (199年没)
- ウィクトル1世 (ローマ教皇) (199年没)
- 公孫瓚 (199年没)
- Adrastus of Aphrodisias (199年(推定))
- 首露王 (199年没)
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