伝記
セリム1世は、1470年10月10日に生まれ、1520年9月22日に没したオスマン帝国の第9代皇帝で、在位は1512年から1520年である。祖父メフメト2世の治世に、父の王子バヤズィト(後のバヤズィト2世)の子としてアマスヤで生まれた。1479年、9歳のときに割礼のため兄弟とともに祖父に召されてイスタンブールへ赴いた。1481年に祖父が没して父が皇帝となり、1487年、セリムは父の命でトラブゾンの知事として赴任した。のちに「ヤヴズ」と呼ばれ、この語には厳格で冷酷であるがゆえに優れた者というニュアンスがあり、「卓越者」とも訳される。
トラブゾン知事のころから、東方でサファヴィー朝と対峙した。1505年、シャー・イスマーイール1世の弟イブラーヒーム・ミールザーが3,000の兵でトラブゾンへ進軍すると、セリムは450の兵を率いてこれを退け、エルズィンジャンまで追った。1507年にはイスマーイールがオスマン領内へ許可なく入り込んだのに、バヤズィト2世が動かなかったため、セリムは自らエルズィンジャンとバイブルトを攻め、サファヴィー朝の軍1万を破った。翌年にはグルジア西部のイメレティとグリアを攻めてオスマン領に組み入れ、このとき1万人を超える人々を奴隷にしたと伝えられる。1510年にイスマーイールがふたたびトラブゾンへ送った軍も撃退した。セリムは父の消極性に不満を持っていた。
継承順位はもとは低く、兄のアフメトが後継者の最有力とされていた。1509年にアフメトはサファヴィー朝が支えるカラマン軍を破り、その名声を背にイスタンブールへ進んだが、父は帝位を奪われることを恐れて入城を拒んだ。1511年、セリムはトラキアで反乱を起こしたが、父の軍とのテキルダーの戦いに敗れ、クリミアへ逃れた。1512年、父がアフメトを世継ぎに指名すると、再び反乱を起こし、最初の戦いでは敗れたものの、イェニチェリの支持を得て父を退位させ、皇帝に即位した。即位後の内紛を避けるため、兄弟とその子らを次々と殺した。父もその後すぐに没したが、セリムによる暗殺も疑われている。
ハンガリーと和睦し、アナトリアのサファヴィー派を粛清して背後を固めたうえで、1514年に東へ出陣し、8月23日にイスマーイール1世とチャルディラーンで戦った。一進一退の戦いであったが、大砲や鉄砲などの火力を高めたオスマン軍が勝利した。1515年には、クルディスタンや抵抗勢力の根強い南アナトリアも制圧している。続いてアラブへ向かい、1516年にマルジュ・ダービクの戦いでマムルーク朝軍を破り、1517年には首都カイロを落としてマムルーク朝を滅ぼし、シリア、エジプト、パレスティナを併合した。聖地メッカとメディナをオスマン帝国の保護下に置いたことで、帝国はスンナ派イスラム世界の盟主の地位を得た。後世にはこれが、スルタン=カリフ制の伝説を生むことにもなった。
エジプトから戻るとロドス島への遠征を準備したが、病を患い、1520年に49歳で亡くなった。帝位は子のスレイマン1世が継いだ。在位はわずか8年であったが、父から受け継いだ領土230余万平方キロを、650余万平方キロにまで広げたという。反対者には冷酷で、同族や大臣も容赦なく処刑した一方、文芸を愛し、詩を詠む文人でもあった。史家のなかには、その業績が祖父メフメト2世を凌ぐと評価する者もある。
同じ年に亡くなった人物
- アロンソ・デ・アラゴン (1520年)
- ビッビエーナ枢機卿 (1520年)
- アゴスティーノ・キージ (1520年)
- ヴィットーレ・カルパッチョ (1520年代没)
- アルフォンシーナ・オルシーニ (1520年)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス (275年没)
- ハドゥム・スレイマン・パシャ (1547年没)