伝記
バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、スペインの探検家で植民地の統治者である。ヨーロッパ人として初めて太平洋に到達した人物として知られる。1475年頃、エストレマドゥーラ地方のヘレス・デ・ロス・カバリェロスに生まれた。実家は貴族の身分だったが貧しく、父は郷士ヌーニョ・アリアス・デ・バルボア、母はバダホスの貴婦人とされる。四人兄弟の三男で、少年期はモゲール領主ペドロ・デ・ポルトカレーロの小姓、従者を務めたという。
1500年、コロンブスの航海の知らせに刺激されて新大陸へ渡り、ロドリゴ・デ・バスティダスの探検隊に加わって、南米北岸を探検した。その分け前で1505年にイスパニョーラ島に腰を据え、農園主や豚の飼育者として暮らしたが、経営がうまくいかず借財を重ねて、島を離れざるをえなくなった。1509年、サントドミンゴの債権者から逃れるため、愛犬レオンシコとともに樽の中に隠れ、密航者としてエンシソ率いる遠征隊の船に乗り込んだ。見つかったエンシソは、彼を最初の無人島に置き去りにすると脅したが、この一帯を探検した経験が役立つと考え直し、船員の助命の嘆願もあって乗船を許した。当時、スペイン王フェルナンド2世は1508年にパナマ地峡一帯の征服に乗り出し、ウラバ湾を境に、東のヌエバ・アンダルシアをオヘダに、西のベラグアをニクエサに統治させていた。エンシソの遠征は、オヘダを助けるためのものだった。オヘダはサン・セバスティアンの入植地の留守を、当時一介の兵士だったピサロに任せていた。ピサロはのちにインカ帝国の征服者となる。
隊が着いたサン・セバスティアン・デ・ウラバの入植地はすでに壊滅し、先住民の攻撃にさらされた。バルボアは、土地が肥沃で先住民の抵抗も弱いダリエンへの移転を提案した。ダリエンでは首長セマコが500人の戦士を率いて待ち構えていたが、スペイン人は勝利し、誓いのとおりサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンを築いた。ここは大陸で最初の恒久的なヨーロッパ人入植地とされ、後に彼の活動拠点となる。食糧不足や先住民の襲撃に悩む人々のなかで、バルボアはリーダーとして才覚を発揮し、植民都市ダリエンの建設を指揮して、その総督に任命された。
懇意にしていた先住民の首長から、南方に黄金の産出地があるという情報を得て、1513年9月に190人の隊を組織して探索を始めた。副官はそのピサロだった。先住民の案内でパナマ地峡を横断し、9月25日に海へ到達した。彼はこれを「南の海」と名づけた。この海が今日の太平洋にあたり、俗に「バルボア海」とも呼ばれた。この探検でアメリカ大陸が二つの大洋に接することが明らかになり、目当ての黄金は見つからなかったものの、ペルーに黄金郷があるという情報を得た。一方で、行程中の略奪や虐殺のため、後世の評価は芳しくない。
本国政府は、それを容認するバルボアの指導力を危ぶみ、パナマ支配の強化も目的に、ペドラリアス・ダビラを新たな総督として送り込んだ。豪放なバルボアと猜疑心の強いダビラは反りが合わなかった。1519年1月、ペルーへ向かおうとした矢先にダビラに召喚され、かつての部下ピサロに捕らえられて獄につながれた。形ばかりの裁判で反逆罪に問われて斬首刑に処され(絞首刑とも伝わる)、波乱の生涯を終えた。没日は1月12日から21日ごろとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マッダレーナ・デ・メディチ (1519年没)
- ジョン・コレット (1519年没)
- ヤン・ヨエスト・ファン・カルカール (1519年)
- ロレンツォ2世・デ・メディチ (1519年没)
- 趙光祖 (1519年没)
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