伝記
エルンスト・ジーモン・ブロッホは、1885年7月8日、ライン河畔のルートヴィヒスハーフェンに、ユダヤ教の信仰を持たない同化ユダヤ人の家に生まれたドイツのマルクス主義哲学者である。父マルクスは鉄道局の官吏で、母はベルタといった。少年のころから哲学に関心を持ったが、両親は強く反対した。そこでたびたび対岸のマンハイムへ逃れ、王立図書館でドイツ哲学に没頭したという。哲学のほかにユダヤ・キリスト教の神秘思想やカバラ、ベートーヴェン、マーラー、ワーグナーなどの音楽にも惹かれ、最初の著作は編集者の意向がなければ『音楽と黙示録』と題されたかもしれないと伝えられる。
ヴュルツブルク大学で哲学を学び、1908年にリッケルトの認識論をめぐる論文で学位を得た。ベルリンではゲオルク・ジンメルの私的な集まりに出て、のちに親交を結んだルカーチと、ジンメルの周囲で出会った。ルカーチとの交友は、ブロッホ自身が後年「共生」とまで呼ぶほど親密で、浮き沈みを経ながら生涯続いた。1913年に、バルト海沿岸の醸造業者の娘と結婚した。ハイデルベルクではマックス・ヴェーバーを囲む集まりに加わり、ラートブルフやヤスパースとも知り合った。1914年に第一次世界大戦が始まりジンメルが戦争支持を表明すると、ブロッホは一方的に友情を絶ち、兵役を避けてスイスへ亡命した。
1918年に最初の著書『ユートピアの精神』を発表した。難解な作品で世間の評判は芳しくなかったが、アドルノやベンヤミンら、問題意識を共有する少数の優れた読者からは絶賛された。1921年には『革命の神学者トーマス・ミュンツァー』を出版した。1920年代はジャーナリストとして活動し、ブレヒトやクルト・ヴァイルらの芸術家と関わりを持った。のちに再婚する建築家カローラ・ピオトルコフスカにもこの時期に出会っている。
1933年にナチスが権力を握ると、ユダヤ人であったブロッホはただちに国外へ脱出した。スイス、オーストリア、フランス、チェコスロバキアなどを転々とし、1934年にウィーンでカローラと再婚した。1938年にはアメリカ合衆国に亡命し、約10年のあいだ亡命生活を送った。その逃避行のさなかに、第二の主著『この時代の遺産』を刊行した。「もはや意識されないもの」と「まだ意識されないもの」という二つの概念を軸に、モンタージュの手法で思考を組み立てた本で、なぜワイマール共和国がナチスを生み出したのかを探った。ヘッセやクラウス・マンのような非マルクス主義者の作家・批評家からも高く評価された。1937年から1938年にかけては、表現主義をナチズムの先駆けと非難するルカーチに対し、前衛芸術が未来を展望する可能性を信じる立場から反論し、「表現主義論争」を展開した。
1949年に東ドイツへ帰国し、ライプツィヒ大学の哲学教授となった。戦時中の沈黙を埋めるように次々と著書を出し、1954年から1959年にかけて第三の主著『希望の原理』を発表した。しかしその思想はあまりに独特で異端的でさえあり、修正主義との批判を受けて、政府当局との軋轢が深まった。1961年、ベルリンの壁の建設を機に西ドイツへ移り、テュービンゲン大学の名誉教授となった。1967年にドイツ書籍協会平和賞、1975年にジークムント・フロイト賞を受けた。政治活動にも積極的に参加しながら晩年の著作を書き続け、1977年8月4日、テュービンゲンで世を去った。『ユートピアの精神』や『希望の原理』は、1968年前後の学生運動や解放の神学にも影響を与えたとされる。
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