伝記
エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1935年1月8日、ミシシッピ州テューペロの、トイレも水道もない小さな家で生まれたアメリカの歌手・俳優である。双子の兄弟ジェシー・ガーロンは誕生時に亡くなり、父ヴァーノンと母グラディスとの3人家族で育った。父が不渡り小切手で服役するほどの極貧の暮らしだったが、両親は彼を大事に育てた。ペンテコステ派の敬虔なプロテスタントの家庭で、9歳で洗礼を受けた。11歳の誕生日にライフルを欲しがったが、母に却下されて代わりにアコースティック・ギターを買い与えられた。これをきっかけに、自宅の地下の洗濯部屋で練習を重ね、音楽に傾倒していった。
1948年、13歳のときに一家はテネシー州メンフィスへ移り、下宿暮らしを経て、1949年にロウダーデール・コート公営住宅に落ち着いた。メンフィスには貧しい黒人の労働者が多く、プレスリーは黒人の音楽を日常的に聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーにも通い続けたが、入場料を払えず一度欠席すると、これに気づいたJ.D.サムナーが楽屋口から入るよう言い、以後は無料で観られたという。このことが後の音楽性に大きく影響したとされる。高校を卒業すると精密金型の会社に就職し、のちにクラウン・エレクトリック社でトラック運転手として働いた。
1953年夏、サン・スタジオで最初の両面デモ盤を録音し、そのために4ドルを支払った。サン・レコードの創業者サム・フィリップスと助手は録音を聞いて才能を感じ、1954年6月に、行方不明となった歌手の代理として彼を呼んだ。フィリップスは、地元のミュージシャンのスコティ・ムーア、ビル・ブラックとともに売り出すことにした。1954年7月5日、リハーサルの休憩中にプレスリーが即興で歌い出した曲を、フィリップスが録音した。これが「ザッツ・オールライト」で、ビッグボーイ・クルーダップのカバーである。ラジオで流れると、メンフィスで局地的なヒットとなり、聴いた人々は黒人歌手と思い込んだという。公民権法の施行前の1950年代は、音楽業界にも人種隔離が根強く残り、白人でありながら黒人のように歌える歌手として注目された。サンとの契約下で5枚のシングルを発売した。
既に別の歌手のマネージャーだったトム・パーカー大佐が彼に接触し、1955年8月に両親がパーカーとの契約書に署名して、サンとの関係を終えた。1955年11月21日にRCAビクターと契約し、1956年1月28日に「トミー・ドーシー・ステージ・ショー」でテレビに初出演した。白人らしからぬパフォーマンスは各地のPTAや宗教団体の激しい非難を呼んだが、若者のあいだでは多数のファンを集めた。腰を揺らす歌唱から、批判的な人々には「骨盤のエルヴィス」と呼ばれた。ラジオ局がレコードを叩き割ったり、フロリダでは下半身を動かせば逮捕と言われ、小指だけを動かして歌ったりする出来事もあった。同年1月に発売された第6弾シングルは、4月にチャートの1位に達した。12月にはサンでカール・パーキンスやジェリー・リー・ルイスとジャム・セッションを行い、のちに「ミリオン・ダラー・カルテット」と呼ばれた。RCAでの最初の1年間、同社のレコード売上の半数がプレスリーのものだったという。
録音では、複数のテイクをつなぐ方式を嫌い、1回で録り切る形にこだわった。後年は録音への関心が薄れ、体調不良も重なった。晩年は活動をショーやコンサート中心に移し、1977年8月16日、自宅のグレイスランドで42歳の若さで亡くなった。
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