伝記
クルト・アロイス・ヨーゼフ・ヨハン・エドラー・シュシュニックは、1897年12月14日に生まれ、1977年11月18日に没したオーストリアの政治家である。オーストリアでは1919年に貴族制度が「フォン」の名乗りまで廃止されたため、現在は「フォン」を付けずに呼ぶのが通例となっている。1938年にオーストリア第一共和国がナチス・ドイツに併合されたとき、首相の座にあった。
オーストリア=ハンガリー帝国のトレント近郊、リーヴァ・デル・ガルダ(第一次世界大戦後はイタリア領)で生まれた。フェルトキルヒの学校を経て、フライブルク大学とインスブルック大学で法学を学び、第一次世界大戦では帝国軍に従軍した。戦後の1924年にインスブルックで弁護士事務所を開いている。1919年からキリスト教保守団体に属して政治活動を行い、1926年にヘルマ・マゼーラと結婚して同年に息子クルトをもうけたが、1935年に自動車事故で妻を失った。1927年にキリスト教社会党から国民議会議員に選ばれ、1932年に法務大臣として入閣した。ドルフース内閣でも法相を務め、1933年には教育大臣を兼ねた。1934年に2月内乱が起きると、減刑を求める意見を無視して敵対者の死刑を執行したため、ドルフースとともに「労働者の殺人者」と呼ばれた。
1934年7月25日にドルフースがオーストリア・ナチスに暗殺されると、7月29日に後任の首相に就き、オーストロファシズムと呼ばれる独裁体制を築いた。国民議会の停止や社会主義者への弾圧を引き継ぎ、9月までに1万3,338人の政治犯を逮捕した。1935年には海外メディアの報道を統制する連邦法を制定し、1936年10月には護国団を解散した。ナチスを嫌悪していたが、イタリアのムッソリーニに頼っていたところ、エチオピアをめぐってイタリアが孤立するとヒトラーの圧力が強まった。1936年7月にドイツと協定を結んでオーストリアの主権を認めさせたものの、見返りにオーストリア・ナチスの政治参加を認め、ドイツ寄りの人物を入閣させることになり、政権は危機感を募らせた。
1938年2月12日、ベルヒテスガーデンでヒトラーと会談し、ナチス指導者ザイス=インクヴァルトの入閣を強制されて一旦は受け入れた。だが2月24日に独立維持を訴える演説をして、ドイツとの併合の賛否を問う国民投票を企図する。ナチ支持者は10代か20代前半の若者が多いため、投票を24歳以上に限れば併合案は否決されると踏んでいた。3月9日に13日の国民投票を表明すると、ヒトラーは激怒し、10日にオーストリア侵攻計画の発動を命じた。侵攻の情報が伝わり、シュシュニックは国民投票の中止を余儀なくされる。ドイツ国防軍が国境に出動した3月11日、首相辞任などの要求を突きつけられた。ミクラス大統領は拒絶を命じたが、シュシュニックはドイツ人同士が戦うのは道義的にも軍事力の差からも無理があると考えて要求を呑み、同日夜に辞任した。ドイツ軍は12日に無血で進駐し、市民は熱狂的に迎えた。
その後、ドイツ軍に拘束され、ウィーンのゲシュタポ本部に収容された。ダッハウ強制収容所を経て、1941年にザクセンハウゼンに移され、高位の収容者として比較的優遇された。1945年5月にアメリカ軍に引き渡され、戦犯として訴追されずに解放された。戦後はアメリカに移住し、1948年から1967年までセントルイス大学で政治学の教授を務めた。1967年にオーストリアへ帰国し、チロルに隠棲して、1977年にインスブルックで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- オイゲン・ヴュスター (1977年没)
- ブルーノ・シュトレッケンバッハ (1977年没)
- ヤーコプ・フェルトハイゼン・ファン・ザンテン (1977年没)
- ウラジーミル・ナボコフ (1977年没)
- オットー・デスロホ (1977年没)
同じ地域に関係する人物
- オットー・シュトルツ (1905年没)
- フランチェスコ・モルラッキ (1841年没)
- Regine Cavagnoud (2001年没)
- マグダレーナ・フォン・エスターライヒ (1590年没)
- フランツ1世 (神聖ローマ皇帝) (1765年没)