伝記
ジョーン・クロフォードは、1904年3月23日にアメリカ合衆国テキサス州サンアントニオで生まれ、1977年5月10日に没した女優である。映画、舞台、テレビで活躍し、1945年に主演した『ミルドレッド・ピアース』でアカデミー主演女優賞を獲得した。
トーマス・E・ルスールとアンナ・ベル・ジョンソンの第3子として生まれ、ルシール・フェイ・ルスールと名付けられた。父はフランスのユグノーの血を引くイギリス人でクリーニング店で働いていたが、クロフォードが生まれる数カ月前に家族を捨てて出て行った。母アンナは後にヘンリー・J・カシンと結婚し、一家はオクラホマ州ロートンに住んだ。カシンはオペラ・ハウスを経営していたものの、暮らしは苦しく不安定で、クロフォードは小学校以降の正式な教育を受けられなかった。ダンサーになるのが夢だったが、ピアノのレッスンをさぼろうとしてベランダから飛び降り、牛乳瓶の破片で脚に深い傷を負い、3度の手術を受けた。幸い怪我は完治し、夢を捨てることはなかった。1916年ごろ、使い込みの疑いで告訴されたカシンがロートンに居られなくなり、一家はミズーリ州カンザスシティへ移る。クロフォードは勤労学生として学校に残り、1922年にスティーヴンス女子大学に入学したが、わずか数カ月で退学した。
巡業演劇一座に加わって本名でダンサーとして働くうち、巡業先のデトロイトで劇場主のジェイコブ・シュバートに見出され、1924年にブロードウェイで『イノセント・アイズ』のコーラスガールに起用された。その後、ハリウッドのプロデューサーのもとへスクリーン・テストのために送られ、1924年12月にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が週給75ドルで契約したいと申し出ていることが伝えられた。借金で旅費400ドルをまかなってカンザスシティを発ち、MGMのあるカルヴァーシティに着いたのは1925年1月1日であった。当初は本名を名乗っていたが、名前の響きを案じた広報責任者ピート・スミスが雑誌で芸名を公募し、「ジョーン・クロフォード」が選ばれた。本人はこの名を生涯嫌い続けたが、「この名前が私を守ってくれたのも間違いない」と語っている。
端役ばかりの現状に苛立った彼女は、自分から積極的に売り込む決心をした。午後にダンスを練習し、夜はホテルのダンス大会で優勝して顔を売ったという。1925年の『三人の踊子』で観客の目を引いた。1920年代の終わりには、流行の最先端をいくフラッパーを代表する女優として世界的に有名になった。1930年代にはノーマ・シアラーやグレタ・ガルボと並び称され、恋や成功を勝ち取る勤勉な若い女性を演じて、世界恐慌のさなかの女性層に支持された。ところが1930年代の終わりには、出演料のわりに興行成績に貢献しない女優というレッテルをはられる。しかし1940年代前半から再び上昇し、1945年に『ミルドレッド・ピアース』で賞を得た。
1955年にペプシコ社の社長アルフレッド・スティールと4度目の結婚をし、1959年に夫が死去すると、取締役会に推挙されて1973年まで役員を務めた。1970年のイギリスのホラー映画を最後に映画界から引退し、1974年に容貌の衰えを写した写真が公開されると人前に出ることを避け、1977年に死去するまで隠棲生活を送った。5人の養子がおり、娘クリスティーナは死後に、虐待があったと断言する暴露本を出版した。アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選んだ映画スターのベスト100では、女優部門の第10位に挙げられている。
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