伝記
アフォンソ・デ・アルブケルケは、1453年、リスボン郊外のアランドラに生まれたポルトガルの貴族、軍人、航海者である。父ゴンサロ・デ・アルブケルケはヴィラ・ヴェルデ・ドス・フランコスの領主で、宮廷で重要な役職にあり、母レオノールはアトウギア伯の娘だった。4人きょうだいの2番目で、王家の血を引く家柄とされる。アフォンソ5世の宮廷で数学と古典ラテン語を学び、のちに王となる王子ジョアンと親しくなった。
若いころは北アフリカで10年ほど軍務に就き、1471年にはアフォンソ5世に従ってタンジェ、アナフェ、アシラーの征服に加わり、守備隊の士官としてしばらく過ごした。1476年には王子ジョアンとともにカスティーリャとの戦争に加わり、トロの戦いにも参加した。1480年には、トルコの攻撃を受けたナポリ王フェルディナンド救援の艦隊に参加し、翌1481年のキリスト教側の勝利に立ち会った。同年に王子がジョアン2世として即位すると、帰国して王の厩舎長に任じられた。1489年には北アフリカへ戻り、グラシオーザ要塞の守りを指揮した。
1503年、フランシスコ・デ・アルブケルケとともに艦隊を率いてインドへ渡り、コーチン王コイカル2世からポルトガルの拠点建設の許可を得て城塞を築いた。帰国後にマヌエル1世の信任を得て、1506年に第2代インド総督に内定し、16隻の艦隊を率いてリスボンを出発した。翌1507年には、紅海の入り口のソコトラ島と、ペルシア湾の要衝オルムズ島を占領した。1508年、マラバールで初代総督フランシスコ・デ・アルメイダにマヌエル1世の辞令を見せたが、アルメイダは指揮権の引き渡しを拒み、アルブケルケは投獄された。カンナノールの要塞に約3か月閉じ込められたともいわれる。
解放されて職務に就いた後、1509年にカリカット攻撃に失敗して北上し、1510年にビジャープル王国が支配していたゴア島を一時占領し、いったん引き上げたのち11月に再び占領して手放さなかった。以後、ゴアはポルトガルのアジア支配の拠点、インド総督あるいは副王の駐在地となった。1511年には、香料貿易の中継地として栄えたマラッカ王国を占領し、マラッカに1年滞在してポルトガルの東南アジアにおける拠点とした。1513年には紅海に入ってアデンを砲撃し、戦隊を率いてこの海に入った最初のヨーロッパ人となったが、アデンは奪えなかった。1514年からは外交に力を注ぎ、カリカットと和平を結び、ゴアにはポルトガル人と現地の人との結婚を勧めた。要所に要塞を築いてインド洋を閉じた海にする構想を持ち、その軍事的才能は高く評価されている。しかしマヌエル1世が、政敵を後任の総督として派遣したことに絶望し、1515年12月16日、ゴア付近の海上で病死した。死の直前にはマヌエル1世からゴア公の称号を与えられたが、本人が享受することはなかったとされる。
彼の構想には、ナイル川の流れを紅海へ向けて、スエズ経由の競争相手をなくすという野心的な案や、エチオピアの王との同盟の模索もあった。彼は「東洋のカエサル」「海のライオン」などと呼ばれた。遺体はグラサ修道院に葬られたとされ、庶子ブラスは父の生涯を『大アフォンソ・デ・アルブケルケ註解』に記し、カモンイスも『ルシアダス』でその功績をたたえた。
同じ年に亡くなった人物
- アルドゥス・マヌティウス (1515年没)
- バルバラ・ザーポリャ (1515年没)
- Barbara of Brandenburg (1515年没)
- Giovanni Dalmata (1515年)
- Claudine, Lady of Monaco (1515年)
同じ地域に関係する人物
- アントニオ・デ・アンドラデ (1634年没)
- ミヒール・スウェールツ (1664年没)
- ディオゴ・デ・コート (1616年没)
- フィリップ・クプレ (1693年没)