伝記
林語堂は、1895年10月10日、福建省の小さな町に生まれた文学者・言語学者・評論家である。祖父の代から続くキリスト教牧師の家で、父もまた牧師であった。10歳のとき廈門に出て小学校と中学校を卒業し、1911年に上海へ移って、英語に強い大学として知られた聖ヨハネ大学に入り、1916年に卒業した。その後、北京の清華大学で約3年間英語教師を務めるかたわら、英文の雑誌の記者となった。1919年にアメリカへ渡ってハーバード大学で言語学を専攻したが、経済的に苦しくなって早めに離れ、フランスで中国人労働者の世話をする仕事に就き、さらにドイツへ移った。ライプツィヒ大学とイエナ大学で研究を続け、博士の学位を得た。
1923年に帰国して北京大学の英語学教授となり、魯迅や周作人らと接触して、彼らの雑誌『語絲』に加わった。政治論文やエッセイを書き、急進的な教授の一人と見られた。1926年には軍閥政府の弾圧を受けて北京を逃れ、廈門大学の文科主任として魯迅や顧頡剛らを招いたが、大学の腐敗にたえかねて1年後に辞任した。1927年には武漢の国民政府に入り、外交部長陳友仁の秘書を務め、英文雑誌に論陣を張った。政府が崩壊したのちは上海に出て、1930年に中央研究院国際出版物交換所の所長となった以外は、政治活動から遠ざかった。
1932年から1936年にかけて、『論語』『人閒世』『宇宙風』などの雑誌を次々に発行し、文学、政治、教育、言語、婦人問題、芸術とさまざまな分野について、風刺とユーモアのこもった小品文を流行させた。そのため「幽默大師」と称された。「幽默」は英語のユーモアに音を当てた語で、彼が1924年に作ったとされる。1933年には魯迅が『論語』を非政治的だと批判し、小品文を「ブルジョワのがらくた」と評したが、魯迅はそのあとも同誌に書き続けた。この時期、アメリカの作家パール・バックと知り合い、彼女を通じて出版社を紹介された。1935年には、中国と中国人の性格や文化を解説した『わが国土・わが国民』をアメリカで出版して世界的な名声を得て、翌年からアメリカに移り住んだ。
1937年に『生活の発見』、1941年に『嵐の中の木の葉』などを刊行し、おもに日本の中国侵略に抗議する作品を発表した。1947年からはユネスコの芸術部長として3年間パリで暮らし、1954年には一時、シンガポールの南洋大学の総長を務めた。1930年代には、部首や筆画を入力する方式で、キー数の少ない中国語の小型タイプライターを開発し、1952年にアメリカで特許を得たが、量産には至らなかった。1966年には友人の懇請を受けて台湾に移り、台北の陽明山に居を構えた。娘の住む香港との間を往来しながら活動を続け、香港で亡くなった。1976年3月26日のことである。遺体は台北の旧居の庭に葬られた。
評価は論者によって分かれた。竹内好は、思想家としては貧弱だがジャーナリストとしての勘は鋭いと評した。新居格は『わが国土・わが国民』を、的確で透徹した客観性をもつ良書として高く評価したが、阿部知二は『生活の発見』を、頭の中でつくった理想化された中国を描いた書だと批判した。ノーベル文学賞の候補にも、1940年から1973年にかけて複数回挙がったが、受賞には至らなかった。
同じ年に亡くなった人物
- カール・シェーファー (1976年没)
- Y・アハロニ (1976年没)
- Achille Souchard (1976年没)
- セルゲイ・シュテメンコ (1976年没)
- ズデニェク・フィールリンゲル (1976年没)