伝記
バーナード・ロー・モントゴメリーは、1887年11月17日、ロンドンのケニントンで、アングロ系アイルランド人の英国国教会牧師の息子として生まれたイギリスの陸軍軍人である。のちに初代アラメインのモントゴメリー子爵となり、最終階級は元帥で、「モンティ」の愛称で呼ばれた。母は子供たちに非常に厳しい教育を施し、本人は母に複雑な感情を抱いたと言われ、1949年の母の葬儀にも出席しなかった。一方で、毎日聖書を読み朝夕に神へ祈る習慣は両親から教わり、生涯の日課とした。父がタスマニア州の司教になったため、少年時代の8年間をオーストラリアで過ごした。帰国後はセント・ポールズ・スクールを経てサンドハースト王立陸軍士官学校に入ったが、札付きの不良で退学寸前だったという。1908年に卒業し、ロイヤル・ウォリックシャー連隊の少尉となった。
1914年8月に第一次世界大戦が始まると、部隊とともにフランスに渡った。モンスの戦いに敗れたイギリス軍の反撃の際、ドイツ軍の狙撃兵に右肺と膝を撃ち抜かれて生死をさまよい、10月に帰国を余儀なくされたが、勇敢な指揮を評価されて殊功勲章を受けた。翌年に復帰して少佐となり、のちには参謀としてアラスの戦いやパッシェンデールの戦いに加わった。戦後はライン川に駐留する大隊の大隊長となり、1919年には戦時昇進を取り消されて大尉に戻された。1921年からはアイルランドのコーク県に駐留し、アイルランド共和軍と戦った。1927年にはエリザベスと結婚して息子デイヴィッドを授かったが、彼女は1937年に虫に噛まれたことによる敗血症で亡くなった。深く打ちのめされた彼は、再婚しなかった。1938年10月に少将となって第8歩兵師団長に就き、パレスチナへ赴任している。
1939年に第二次世界大戦が始まると、第3師団を率いてフランスに赴いた。ドイツの電撃戦でダンケルクから撤退する戦いの最中に第2軍団の指揮官となり、この撤退を成功させた。1942年8月、チャーチルは、北アフリカ戦線の第8軍団の指揮官に、オーキンレックに代えてモントゴメリーを任命した。前任者たちがロンメルを意識しすぎて敗れ続けたと理解した彼は、ロンメルの真似をした前線の生活を止めさせた。8月31日のアラム・ハルファの戦いで堅実な防御により勝ち、10月23日からのエル・アラメインの戦いでは、ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍団を12日間の激戦の末に破り、エジプトから退却させた。11月1日には「スーパーチャージ作戦」を発動し、4日にロンメルは撤退を命じた。1943年1月23日にはトリポリに入城した。
同年7月のシチリア島上陸では、パットンの部隊に最終目標のメッシナを先に占領され、以後パットンをライバル視するようになったという。その後、ノルマンディー上陸作戦の立案のために本国へ呼び戻され、1944年6月6日のD-デイでは、実質的な連合国軍のトップとして歴史上最大規模の上陸作戦を統率した。アイゼンハワーが地上軍の総司令官に就くことには強く反対したが、押し切られ、チャーチルは彼を元帥に昇格させて穏便に収めようとした。同年9月に決行した「マーケット・ガーデン作戦」は、イギリス第1空挺師団の壊滅などで失敗に終わった。1976年3月24日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
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