伝記
ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアは、1905年12月24日にテキサス州ヒューストンで生まれたアメリカ合衆国の実業家、映画製作者、飛行家、発明家である。父ハワード・ヒューズ・シニアは弁護士の資格を持ちながら、一攫千金を夢見て鉱物の掘削に取り組んだ人で、母エイリーンは名家の出であった。ハワードが3歳のとき、父はドリルビットの特許とともにシャープ・ヒューズ・ツール社を設立した。この会社のビットはそれまでの製品とは桁違いの掘削能力を発揮し、需要はヒューズ家に大金をもたらした。幼いころから発明を好み、アマチュア無線や、自転車に自動車のセルフスターター付きモーターを取り付けた即席のバイクを作った。父の不在、父方の遺伝による難聴、母の異常なまでの潔癖症などから内向的な性格になったという。学業にはほとんど興味を示さずライス大学を中退し、飛行機やレーシングカーに魅力を感じた。
1922年、16歳のときに母が病死し、その2年後には父が急死した。18歳で孤児となったが、87万1,000ドルと評価されたヒューズ・ツール社の株の75%と、当時ほとんどの掘削機が使っていたドリルビットの特許を受け継いだ。1925年にカリフォルニア州へ移り、1927年にはかねての夢だった映画製作と飛行家業に莫大な遺産を投じた。周囲は当初その手腕を疑ったが、1928年制作の『暴力団』は第1回アカデミー賞の作品賞候補となった。製作費が史上初めて100万ドルを超えた『地獄の天使』(1930年)や『暗黒街の顔役』(1932年)がヒットして成功を収めた。『地獄の天使』は、第一次世界大戦のパイロットを描き、当時の本物の戦闘機や爆撃機87機を購入して実際に飛ばして撮影した。撮影には2年かかり、事故で3人のパイロットが死亡した。ヒューズ自身も墜落して眼窩前頭皮質を損傷し、これがのちの奇行の原因になったともいわれる。1948年には経営危機にあったRKO社を880万ドルで買収したが、経営を改善するには至らず、のちトランス・ワールド航空の資金を作るため売却した。
航空産業にも情熱を傾け、1935年にヒューズ・エアクラフト社を設立した。1937年には自ら操縦してニューヨークとロサンゼルスの間を7時間29分25秒で飛び、アメリカ大陸横断の記録を樹立し、1938年にはわずか91時間で世界一周飛行の最速記録を打ち立てた。1946年には、開発に関わった高速偵察機の試験機XF-11の操縦中に機体が故障し、住宅地に不時着して大怪我を負った。集大成といえる巨大な飛行艇H-4は、機体の大部分が木製で「スプルース・グース」とも呼ばれ、1947年の完成当時は世界最大の航空機だった。軍用輸送機として開発されたが戦争の終結で契約が破棄され、1機だけが造られ、ヒューズ自身が1回飛ばしただけだった。1939年には大手のトランス・コンチネンタル・アンド・ウェスタン航空を買収し、のちのトランス・ワールド航空の経営にも進出した。
晩年は穏やかではなかった。事故の鎮痛剤としてコデインの中毒となり、深刻な精神衰弱にも陥ったという。強迫性障害らしき行動が年とともに増え、極度に細菌を恐れるようになった。1966年にトランス・ワールド航空を手放した資金でラスベガスのホテルを買収すると、除菌された最上階の部屋から、ほとんど外出しなくなった。1976年4月5日、昏睡状態となってメキシコからアメリカへ戻る途中、自家用機内で息を引き取った。70歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- サル・ミネオ (1976年没)
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