伝記
マルティン・ハイデッガーは、1889年9月26日、帝政ドイツ南西部バーデン大公国の小村メスキルヒで、フリードリヒとヨハンナの第一子として生まれたドイツの哲学者である。父は樽桶職人で、聖マルティン教会の堂守も務めた。名の「マルティン」はこの教会の守護聖人に因み、祖父も同じ名であった。父は無口だったが講演会にはよく足を運び、シラーの「鐘の歌」を暗誦したという。母は陽気で率直な人で、「いつも何かを楽しみにしていていいのよ」が口癖だった。のちにハイデッガーは、自分を「空の広大さに身を開き、同時に大地の神秘に根を下ろしている」と書いている。
当時のメスキルヒは、教皇不謬性の教義をめぐるカトリック内部の対立で揺れていた。自由主義的な近代化を目指す古カトリック派が教会の利用許可を得たため、ローマ・カトリック派は教会を失い、ハイデッガーはローマ派が果物倉庫に設けた臨時の教会で洗礼を受けた。父は不利益を受けながらもローマ派にとどまり、対立した古カトリック派にも寛容に接した。家では「すべてにおいて節度を守ること」が不文律だった。経済的な暮らしは低い水準で、1891年に妹マリー、1894年に弟フリッツが生まれた。寺男の子として教会の掃除やミサの鐘撞きを手伝い、午後3時の鐘を撞く役目も負った。のちに、鐘の音とともに静けさが深まる情景を書き残している。
小学校ではスケートやサッカー、スキーを好み、父の樽作りも手伝った。サッカーではレフトウイングとして活躍した。村にはギムナジウムがなかったため、1900年から司祭ブラントフーバーにラテン語の個人指導を受け、1903年秋にボーデン湖畔のコンスタンツにあるギムナジウムに入学して、大司教区の宿舎で暮らした。そこで、のちにフライブルク大司教となるコンラート・グレーバーから「決定的な知的影響を受けた」と述べている。1906年からはフライブルクのギムナジウムでアビトゥーアの準備をし、教師ヴィダーのギリシア語の講義でプラトンを学んで、哲学的な問題を意識するようになったと語っている。1907年の夏には、グレーバーからブレンターノの学位論文「アリストテレスにおける存在者の多様な意義について」を贈られた。これに衝撃を受けて図書館でアリストテレス全集を借り出し、後年、この時に「存在の問い」に目覚めたと述べている。1908年にはヘルダーリンを読み、1909年にはブライヒの『存在について』を入手した。
1909年9月、オーストリアのイエズス会の修練院に入ったが、10月に病気を理由に除籍された。そこでフライブルク大学神学部に入学し、入寮した日からフッサールの『論理学研究』を借りて研究を始めた。ブレンターノの論文を理解するのに役立つと考えたためという。ブライヒからはヘーゲルとシェリングを学んだ。
フライブルク大学では当初キリスト教神学を研究し、ブレンターノやフッサールの現象学のほか、ライプニッツ、カント、ヘーゲルらの観念論や、キェルケゴール、ニーチェらの実存主義から強い影響を受けた。アリストテレスやヘラクレイトスなど古代ギリシア哲学の解釈を通じて、独自の存在論を展開し、1927年の主著『存在と時間』で、伝統的な形而上学の解体を試みた。ヘルダーリンやトラークルの詩の研究でも知られる。1930年代にナチスへ加担したことは、たびたび論争を呼んだ。1976年5月26日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・シュルツ (1976年没)
- グスタフ・ハイネマン (1976年没)
- アレクサンドロス・パナグリス (1976年没)
- Alfredo Porzio (1976年没)
- ジョン・バッドコック (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- オットー・レーマン (1922年没)
- レオポルト・グメリン (1853年没)
- インゲ・ショル (1998年没)
- ジークフリート・ブーバック (1977年没)
- テオドランド・ド・ボアルネ (1857年没)