伝記
カジ・ノズルル・イスラムは、1899年5月24日、ベンガル管区のチュルリア村に生まれたベンガル語の詩人、音楽家、独立運動家である。代々カーディーを輩出したムスリムの家系で、男3人女1人のきょうだいの次男だった。父はモスクで礼拝の導師を務めた人物で、子供のころのあだ名は「根暗」を意味するドゥク・ミアンであった。モスク付属のマクタブとマドラサでイスラーム諸学を学んだが、10歳の1908年に父が亡くなると、モスクの管理人の仕事を引き継いで家計を支え、のちには礼拝の呼びかけを行うムアッズィンも務めた。叔父が営む旅回りの田舎芝居の一座に惹かれ、一座と旅をして演劇を学び、歌詞や脚本を書いた。この間にベンガル語やサンスクリットの文学、プラーナ聖典などヒンドゥー教文化の知識も深めた。
1910年に一座を離れて高等学校に入ったが、学費が払えず退学し、別の一座に入り、アサンソルのパン屋や茶屋でも働いた。1914年にダリランプル高校に通い、ベンガル語、サンスクリット語、アラビア語、ペルシア文学、古典音楽を学んで、教師たちを感心させた。10年生までを終えたが、大学入学のための試験を受けず、1917年、18歳で英印軍に入隊した。冒険への渇望と、当時の政治への関心が動機だったとされる。第49ベンガル連隊に属してカラチに配置され、交戦経験こそなかったものの、下士官から上級の階級にまで昇った。この時期にタゴールを集中的に読み、ハーフィズやウマル・ハイヤーム、ルーミーなどのペルシア語詩人についても、連隊の知識人から教わった。1919年5月には最初の散文集を出し、同年7月に雑誌に詩「自由」が載った。
1920年に連隊の解散に合わせて除隊し、カルカッタに居を定めて、ムスリム文芸誌の編集に加わった。同年、最初の小説と第一詩集を出版し、高い評価を受けた。1922年に詩「反逆」を発表すると、不服従運動と時期が重なったこともあって多くの人に受け入れられ、名声は絶頂に達した。以後「反逆の詩人」と呼ばれる。同年8月には隔週刊誌『彗星』を創刊したが、植民地当局に警戒され、政治的な詩の掲載後に警察の手入れを受けた。1923年1月に扇動の罪で逮捕され、移された刑務所では、所長の酷い扱いに抗議して40日間のハンガーストライキを行い、1923年12月に釈放された。獄中の多くの詩や歌はインド政府に発禁処分とされた。1924年に刊行した『毒の笛』も発禁となったが、ひそかに回し読みされた。同年4月25日、ヒンドゥー教徒のプラミラ・デーヴィーと結婚し、双方の宗教の側から非難を受けたが、名声は日増しに高まった。
作品は自由、人間中心主義、愛、革命と多岐にわたり、宗教やカースト、性別による偏見や原理主義に反対した。ベンガル語でガザル形式の詩を書いた最初の詩人であり、カーリー女神を讃える歌も作って、作曲した歌は4000曲近くに上る。1928年にはレコード会社と契約し、歌はラジオでインド全土に流れた。1942年、43歳のときに原因不明の症状で発話と記憶を失い、ウィーンでピック病と診断された。数十年を病院で過ごしたのち、1972年にバングラデシュ政府の招きでダッカへ移り、1976年8月29日に同地で亡くなった。今日、バングラデシュの国民詩人とされている。
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