伝記
ソーントン・ワイルダーは、1897年4月17日にアメリカ合衆国ウィスコンシン州マディソンに生まれ、1975年12月7日に没した劇作家、小説家である。アメリカ演劇史における代表的な劇作家の一人とみなされている。父アモス・パーカー・ワイルダーは新聞の編集者で、のちに外交官となり、領事として香港や上海に赴任した。母はイザベラ・ソーントン・ナイヴンである。きょうだいは4人いて、死産だった双子もいたとされる。兄のアモスはハーバード大学神学大学院の教授となった。
一家は父の赴任にともなって一時期を中国で過ごし、1911年から翌年にかけては、現地でイギリス系とドイツ系のミッションスクールに通った。中国の政情不安のため、1912年に母やきょうだいとカリフォルニアへ戻っている。カリフォルニア州オーハイのサッチャー・スクールにいた頃に戯曲を書き始めたが、学校になじめず、同級生から知的すぎると冷やかされたという。1915年にバークレー高校を卒業した。第一次世界大戦中には、陸軍の沿岸砲兵隊に3か月入隊し、伍長まで昇進している。オーバリン大学に通ったのち、1920年にイェール大学で学士号を得て、1926年にはプリンストン大学でフランス文学の修士号を取った。
イェール大学を出るとローマのアメリカン・アカデミーに留学して考古学とイタリア語を学び、1921年からはニュージャージー州のローレンスヴィル校でフランス語を教えた。最初の小説は1926年の『カバラ』で、1927年の『サン・ルイ・レイの橋』が商業的な成功をもたらし、1928年に最初のピューリッツァー賞を受けた。この小説は、ペルーの橋が崩れて偶然居合わせた無関係な人々が亡くなる話で、なぜ「罪のない」人々に不幸が起きるのかという問いを探っている。ひとつの災害が犠牲者たちを結びつけ、事故以前の出来事を回想で描いていく構成は、現代の災害物語の源流とされる。1998年にはモダン・ライブラリーの編集委員会により、20世紀の小説の百選に選ばれ、2001年の同時多発テロの追悼式では、英国首相トニー・ブレアがこの本を引用した。同じ1928年にローレンスヴィル校を辞し、1930年から1937年までシカゴ大学で教えた。
1938年の戯曲『わが町』で二度目のピューリッツァー賞を受賞した。ニューハンプシャー州の架空の町グローヴァーズ・コーナーズを舞台とし、ダンテの『神曲』煉獄篇や、友人ガートルード・スタインの小説にも着想を得たという。1943年には『危機一髪』で三度目の受賞となった。ほかに『長い長いクリスマスディナー』や『結婚仲介人』などの作品がある。4か国語に通じ、アンドレ・オベーやサルトルの戯曲を翻訳した。オペラの台本も二つ書いており、『長い長いクリスマスディナー』はヒンデミットが、自作の戯曲に基づく『アルケスティアード』はルイーズ・タルマが作曲した。ヒッチコックに頼まれて映画『疑惑の影』の脚本の初稿も仕上げた。
第二次世界大戦では陸軍航空隊の情報部で中佐にまで昇進し、アフリカで、次いで1945年までイタリアで勤務した。戦後はハーバード大学の客員教授となり、1年間はチャールズ・エリオット・ノートン教授も務めた。自分は教師が第一で作家は第二だと考えていたが、生涯書き続けた。1957年にドイツ書籍協会平和賞、1963年に大統領自由勲章を受け、1968年には小説『第八の日に』で全米図書賞を受賞した。
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