伝記
スーザン・ヘイワードは、本名をエディス・マレナーといい、1917年6月30日にニューヨーク市ブルックリンのフラットブッシュ地区で生まれたアメリカ合衆国の女優である。生年には1918年または1919年とする説もある。父はトラックの運転手で、母方の祖父母はスウェーデンからの移民であった。3人きょうだいの末っ子で、姉と兄がいた。1924年に車にはねられて股関節と脚を骨折し、体の一部をギプスで固められ、そのときの骨の付き方が、のちに彼女の特徴となる腰の動きのもとになったという。学校では芝居に出演し、卒業時には級友から「最も劇的な人」に選ばれた。
商業高校を卒業すると女優を夢見てモデルとなり、1937年にハリウッドへ移った。映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役のオーディションを受けて最終選考まで残ったが、役は得られなかった。それでもセルズニックに他の俳優のスクリーンテスト相手として使われ、ワーナー・ブラザースと契約を結んだ。タレント・エージェントのマックス・アーノウが、この契約の開始にあたって名をスーザン・ヘイワードに改めさせた。ワーナーでは端役が続き、ロナルド・レーガンと共演した『ガールズ・オン・プロベーション』の役が最初のまとまった出番だったが、その後は再び役名のない出演に戻り、宣伝用のピンナップ写真の撮影もさせられた。契約が終わるとパラマウントに移った。
1939年にパラマウントと週250ドルの契約を結び、『ボー・ジェスト』でゲイリー・クーパーの相手役に配されて、実質的なデビューを果たした。出番は多くないが物語の鍵となる、兄弟たちが思い出す初恋の相手イソベルの役で、作品は大きな成功を収めた。その後は映画会社を渡り歩いてB級映画に多く出演し、男優の添え物にとどまる不遇な時期を過ごしたが、やがて順調にキャリアを重ねて人気女優となった。赤毛がトレードマークで、美しさはハリウッド一と言われた。1952年にはハリウッドの外人記者協会が「世界で最も愛すべきスター」の女優部門に彼女を選んでいる。1947年の『スマッシュ・アップ』で初めてアカデミー賞にノミネートされ、『愚かなり我が心』『我が心に歌えば』『明日泣く』でも候補となったが、受賞には至らなかった。1955年には『明日泣く』でカンヌ国際映画祭の女優賞を受けた。1958年には、実在した女囚を演じた『私は死にたくない』でアカデミー主演女優賞を受賞し、受賞時のインタビューでは作品名にかけて「私はこのまま死んでしまいたい」と言って人々を笑わせた。
私生活では1944年にジェス・バーガーと結婚して双子を産んだが、1953年に離婚した。1955年には睡眠薬で自殺をはかり、命は取り留めている。1957年に弁護士のイートン・チョークリーと再婚し、その後ジョージア州へ移ると、映画への出演は少なくなったが、1972年まで映画やテレビで演じ続けた。チョークリーは1966年に病死した。1971年に脳腫瘍の兆候が現れて入院し、複数の癌の病変も見つかったが、手術を拒み投薬などの治療を続けた。1974年に症状が悪化し、7月に手術を受けたものの容体は好転せず、1975年3月14日にカリフォルニア州で死去した。
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