伝記
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニンは、1895年6月11日にロシア帝国のニジニ・ノヴゴロドで中産階級の家庭に生まれたソビエト連邦の政治家であり軍人である。父アレクサンドルは、市から50キロメートル離れたセイマ駅にあるパン製造工場で事務員を務めていた。ブルガーニンは1915年にニジニ・ノヴゴロドで電気技師見習いとして働き始め、1917年には実科中学校に学んだが、ロシア革命を経てボリシェヴィキに入党した。1918年には秘密警察チェーカーに入り、反革命の取り締まりに辣腕を振るったとされる。ロシア内戦では赤軍を統制する全ロシア・チェーカーの特別部に所属し、その後も輸送部門を中心にトルキスタン戦線などで役職を重ねた。
内戦が終わると、1922年から電気トラストの理事となり、1927年からはモスクワの電気工場長を務めた。1930年にこの工場がソ連の工場で初めてレーニン勲章を授与され、ブルガーニンもソ連初の同勲章授与者の一人となった。工場の党委員会にはニキータ・フルシチョフの妻が勤めており、フルシチョフ自身も視察委員会の責任者だった。このときから二人の信頼関係が始まり、1950年代半ばまで続いたという。1931年にはモスクワ市ソビエト議長に就任し、反右派闘争やモスクワ市の改造計画を積極的に進めたことでスターリンに認められた。1937年にロシア共和国の首相にあたる人民委員会議議長となり、翌1938年にはソ連の副首相兼国立銀行総裁に任じられ、1939年には党中央委員に選ばれた。
第二次世界大戦中は進んで前線へ赴き、西部戦線などで政治委員の最高責任者として活躍した。1944年12月に国防人民委員代理に転じ、スターリンを議長とする国家防衛委員会の委員となる。1947年3月3日に軍事大臣へ就任してソ連邦元帥の階級を授けられたが、軍の指揮経験のない文民のブルガーニンをこの地位に据えたのは、戦時中に台頭したジューコフらの政治介入を避けたいスターリンの意向によるものだったとされる。ロシアの軍事百科事典によれば、1945年5月に1,100万人いた陸海軍は、1948年までに287万4,000人に削減された。1948年には政治局員となり、スターリンの側近の一人として体制の中枢を担った。
1953年3月にスターリンが死ぬと、マレンコフ政権で第一副議長と国防大臣を兼ねた。フルシチョフが党第一書記として実権を握ると、1955年にマレンコフに代わって閣僚会議議長に就任し、フルシチョフと「B・Kコンビ」を組んだ。同年5月にはフルシチョフとともにユーゴスラビアを訪れて、チトー大統領に和解を申し入れ、続いてインドやビルマなどを歴訪して平和共存外交を展開した。日本の鳩山一郎首相らのソ連訪問を経て、日ソ共同宣言と日ソ漁業協定が結ばれた。しかしフルシチョフの政策に疑問を抱くようになり、1957年6月のモロトフらの反党グループによる解任の企てに積極的に関与した。フルシチョフが辛くもこれを退けたため、ブルガーニンは1958年3月に首相を辞任(解任とも記される)し、同年9月に幹部会員を解任されて元帥の階級も剥奪され、大将に降格となった。スタヴロポリの人民経済会議議長を経て、1960年に引退し、1975年2月24日に79歳で死去した。
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