伝記
ハイレ・セラシエ1世は、1892年7月23日にエチオピア南部のショア地方の貴族の子として生まれ、のちにエチオピア帝国最後の皇帝となった人物である。血縁上は、アドワの戦いで名を馳せたメネリク2世の従兄弟の子にあたり、古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリク1世の子孫であることを主張した。幼い頃から聡明で、若くして各地の州知事を歴任し、タファリ侯を称号とした。記憶力が非常に優れ、晩年に至っても重要事項をすべて暗記していて、メモの類を一切必要としなかったという逸話が残る。
1916年のクーデターの後、メネリク2世の娘で女帝として即位したザウディトゥのもとで皇太子・摂政となり、実権を掌握した。1924年4月にはヨーロッパを外遊し、エチオピアの国際連盟加盟を実現している。イタリア、イギリス、フランスの影響力に対抗するため、アメリカ合衆国や大日本帝国に接近した。ザウディトゥの崩御後、1930年4月に皇帝に即位し、同年11月2日に戴冠式が行われた。1931年7月16日には、大日本帝国憲法を範とした7章55条のエチオピア初の成文憲法を制定したが、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。省庁の設置など近代化を進め、とくに教育に力を入れたものの、教育施設は国民の需要に追いつかず、識字率の向上は失敗に終わった。1930年から1935年までの近代化は速すぎたため、各地で反乱や暴力沙汰も起きたとされる。
1935年10月3日、ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げて侵攻し、第二次エチオピア戦争が始まった。国際連盟でイタリアへの強制措置を訴えたが、英仏の対応が誠意を欠いたため、行われたのは限定的な経済制裁にとどまった。1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いてエチオピア軍を壊滅させ、5月1日に首都アディスアベバへ到達する。皇帝は翌日、鉄道でジブチへ向かい、イギリスへ亡命した。6月30日にはジュネーブの国際連盟総会に出席し、エチオピアの主張とイタリアに屈した各国を非難する演説を行った。君主が総会に出席したのはこれが初めてだった。エチオピアは1936年から1941年までイタリア領東アフリカ帝国として統治されたが、第二次世界大戦中の1941年にイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝は凱旋帰国した。
戦後は朝鮮戦争やコンゴ動乱で国連軍にエチオピア軍を参加させた。1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバでアフリカ統一機構の初代議長に就いた。一方、内政では専制を続けて封建体制を維持し、1960年には皇太子を擁立した近衛部隊のクーデター未遂が起きた。1970年頃からの飢饉とインフレが国民生活を苦しめたが、皇帝は対応せず、飢饉を隠蔽したとして国際社会の非難を浴びた。
1974年2月に軍が反乱を起こし、エチオピア革命と呼ばれる動乱の中、同年9月に皇帝は陸軍により廃位された。軟禁中の1975年8月27日に旧メネリク宮殿で死去したとされるが、1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表している。遺骨は1992年に旧宮殿敷地内から発掘され、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬された。ジャマイカのラスタファリ運動では、即位前の名ラス・タファリにちなみ、神の化身として崇拝された。1956年11月には戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓となっている。
同じ年に亡くなった人物
- アーンスト・アレキサンダーソン (1975年没)
- ロイ・ロバーツ (1975年没)
- Fidel Ortiz (1975年没)
- Roque Dalton Garcia (1975年没)
- Valentina Serova (1975年没)
同じ地域に関係する人物
- タスファレ・ゲブレ・キダン (2004年没)
- リジ・イヤス (1935年没)
- アマン・アンドム (1974年没)
- マモ・ウォルデ (2002年没)
- テフェリ・バンテ (1977年没)