伝記
アーノルド・ジョゼフ・トインビーは、1889年4月14日にロンドンで生まれ、1975年10月22日に86歳で没したイギリスの歴史家・歴史哲学者である。1918年から1950年まで国際問題の第一人者として活躍し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの国際史研究教授などを務めた。経済学者だった叔父の同名のアーノルド・トインビーと区別するため、ミドルネームの頭文字を添えて表記されることが多い。
父は慈善組織協会の主事ハリー・ヴァルピー・トインビー、母はサラ・エディス・マーシャルで、叔父を含め、数世代にわたって知識人を出した家系であった。奨学金を得てウィンチェスター・カレッジに学び、続いてオックスフォード大学ベリオール・カレッジに進んだ。ギリシャへの短期留学は、文明の衰退に関する彼の哲学の起源に影響を与えたとされる。1912年にベリオール・カレッジで古代史のチューター兼フェローとなり、1915年にはイギリス外務省の情報部に勤務した。1919年にはパリ講和会議の代表を務め、その後ロンドン大学でビザンチン・現代ギリシャ史の教授となったが、キングス・カレッジ・ロンドンの教授陣との学術的な論争の末に辞任した。1921年から1922年には、マンチェスター・ガーディアン紙の特派員として希土戦争を取材し、その経験をもとに著書を出版している。
第一次世界大戦のさなかにも、トインビーは発言を重ねていた。1915年の著書『民族とこの戦争』では、戦後の平和条約を民族の原則に基づいて策定すべきだと主張した。翌1916年の『新しいヨーロッパ』では、「自然国境」の概念を批判し、自然国境を得るためにさらに戦争を起こすことが正当化されてしまうと指摘した。その代わりに、経済的につながった国々の間での自由貿易や協力を容易にすること、国境を住民が実際に住みたいと望む国に基づいて引くことを提案した。後者の原則は、一貫性はないものの、大戦後のシュレースヴィヒなどで行われた住民投票の形で実際に守られたことがある。
1925年にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの国際史の研究教授と、王立国際問題研究所の研究部長に就任した。1929年には太平洋問題調査会の委員として来日し、松本重治との友情を深めた。1937年にはイギリス学士院のフェローに選ばれた。私生活では、1913年にロザリンド・マレーと結婚して3人の息子をもうけたが、1946年に離婚し、同年、研究助手だったベロニカ・M・ボールターと再婚している。
代表作は、1934年から1961年にかけて刊行された全12巻の『歴史の研究』である。人類の歴史のなかの26の文明の盛衰を検証し、それらの文明は、エリート・リーダーからなる創造的な少数派の導きのもとで課題にうまく対応することにより発展したと結論づけた。この書は商業的にも学術的にも成功し、アメリカ国内だけでも1955年までに10巻セットが7千セット以上売れた。最初の6巻を1巻にまとめた1947年の要約本は、アメリカで30万部以上売れたという。トインビーは1947年3月17日号の『タイム』誌の表紙を飾り、BBCの番組でも活躍した。カナダの経済史家ハロルド・イニスらは彼の研究を受け入れたが、1960年代に入ると、事実に基づくデータよりも神話や寓話、宗教を好むと見られたこともあって、主流の歴史家のあいだでは人気を失った。
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