伝記
蔣介石は、1887年10月31日、清朝の浙江省奉化県渓口鎮に生まれた中華民国の政治家・軍人である。父は塩や酒を扱う商人の蔣肇聡、母は王采玉で、実家は裕福だったが、父は蔣が9歳のときに亡くなり、以後は教育熱心な母の手で育てられた。6歳から私塾や家庭教師に就いて中国の古典を学び、1902年には塾の師の娘である毛福梅と結婚した。のち鳳麓学堂、箭金学堂で英語や数学、西洋法律を学び、1906年に日本へ渡った。当初の目的だった東京振武学校には入れなかったが、翌1907年に再び来日して同校に留学し、第11期生の一人として2年の課程を修めた。日本の陸軍士官学校には受からず、1910年12月からは新潟県高田の野砲兵第19連隊に士官候補生として勤務した。この間、孫文の中国同盟会に属する陳其美と出会って親交を深め、1910年には長男の蔣経国が生まれ、孫文とも対面している。
1911年10月に辛亥革命が起こると、休暇を願い出て上海へ帰国し、陳其美の決死隊を率いて杭州攻略に向かった。これが初陣で、死を覚悟して母、妻、長男に宛てた遺書を残したという。11月3日に攻略戦が始まり、翌日午後に杭州を陥落させて、浙江省の独立を宣言した。1912年3月からは日本に赴き、東京の代々木に軍声社を設けて、中国同盟会員や在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行した。1916年には戴季陶の子の蔣緯国を養子として次男とした。孫文に認められるようになり、中国国民党の右派の代表として頭角を現す。1923年に孫文の指示でソビエト連邦の軍制を視察し、1924年には広州の黄埔軍官学校の校長に就いた。1926年7月に国民党が北伐を始めると、1927年に上海クーデターで共産党を弾圧して党と政府の実権を握り、同年に宋美齢と結婚した。1928年には国民政府主席となり、基本政策は反共と、対日、対英米の善隣外交とした。北伐を完遂して中華民国の最高指導者となった。
1931年の柳条湖事件から満洲事変が起こり、1936年12月の西安事件では張学良に軟禁され、対日・反共政策の見直しを迫られた。1937年7月に盧溝橋事件が起こると抗日を進め、同年12月、日本軍による南京占領は避けられないと判断して、四川省の重慶へ遷都した。1941年に連合国共同宣言に署名して中華民国は四大国の一員となり、1938年には中国国民党総裁に就任し、1943年にはカイロ会談に出席した。1944年には日本軍の大陸打通作戦で重慶政府軍が大打撃を受け、蔣は連合国軍の参謀長だったスティルウェルを解任した。1945年に抗日戦争が終わると毛沢東と双十協定を結んだが、1946年には第二次国共内戦に突入した。
1948年に初代の総統となり、翌年いったん辞任した。内戦に敗れた1949年12月、成都から息子の経国とともに台湾へ飛び、事実上台北への遷都を強いられた。1950年3月に再び総統となり、以後は死去するまで総統の地位にあった。台湾では戒厳令を敷き、これは死後の1987年まで続いた。1950年から1975年の白色テロ期には政治案件が合計7,822件にのぼったとされる。1969年に交通事故に遭って体調を崩してからは表舞台に出なくなり、1972年6月にも肺炎で一時重篤となって持ち直したが、以後は公の場に姿を見せなかった。1975年4月5日に87歳で死去した。任期中の死去だったため、副総統の厳家淦が後任の総統に昇格した。死因は心臓麻痺とも心臓病ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ヤン・ムカジョフスキー (1975年没)
- 遊佐正憲 (1975年没)
- マドレーヌ・ヴィオネ (1975年没)
- ジョゼフ・ギルモ (1975年没)
- ドミートリイ・ショスタコーヴィチ (1975年没)