伝記
ハンナ・アーレントは、1906年10月14日に生まれたドイツ出身の政治哲学者、思想家で、のちにアメリカ合衆国に亡命した。ドイツ系ユダヤ人で、ケーニヒスベルクの旧い家柄であるアーレント家の出であり、出生地はハノーファー郊外のリンデンである。父パウルは工学士の学位を持つ電気工事会社の勤め人で、ギリシアやラテンの古典に深い造詣を持つ教養人だった。ハンナの読書は父の蔵書から始まった。母マルタは注意深く娘を育て、詳細な育児記録を残している。それによれば、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、言葉や数学に高い理解力を見せ、音楽を好みながら音痴だったという。両親は社会民主主義者で、ともに信仰を持たなかった。それでも家族ぐるみの付き合いのあったラビのシナゴーグに通い、法律上の義務からキリスト教の日曜学校にも通った。後年、子供のときから神の存在を疑ったことはないと述べている。
15歳のとき、在学していた学校で若い教師の授業をクラスメートとともにボイコットし、放校処分を受けた。その後二学期のあいだベルリン大学で学び、神学教授グァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受けた。独学ののち、1924年に18歳で大学入学資格試験に合格し、マールブルク大学に入学した。同年秋、そこでマルティン・ハイデッガーと出会って哲学に没頭し、本人はこれを「初めての情事」と表現している。当時既婚だったハイデッガーとは一時、不倫関係にあった。ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となった。続いてフライブルク大学でフッサールのもとに一学期間を過ごし、ハイデルベルク大学でカール・ヤスパースの指導を受けた。博士論文は『アウグスティヌスの愛の概念』である。この頃クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想と活動に目を開かれた。1929年9月にギュンター・シュテルンと結婚し、1931年にはフランクフルトへ移った。
ナチスが政権を獲得してユダヤ人迫害が起こると、ブルーメンフェルトに協力して反ユダヤ主義の資料を集め、亡命する人々を助ける活動に従事した。一度は逮捕される危険にあい、1933年にフランスへ亡命した。1937年にギュンターと別れ、1940年にはスパルタクス団やドイツ共産党で活動したハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚し、彼から政治的思考を学んだ。同年フランスがドイツに降伏し、1941年にアメリカ合衆国へ亡命した。1951年に市民権を得て、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビアの各大学で教授や客員教授を歴任し、1967年にはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命された。
1951年の代表作『全体主義の起源』で、ナチズムとソ連のボリシェヴィズム、スターリニズムを分析した。「起こってはならないことが起こってしまった」という衝撃が、政治についての思索の出発点だったという。ナチズムとスターリンのボリシェヴィズムがそれまでの専制政治と異なるのは、ともに世界征服を目指し、秘密警察と強制収容所が国家の中核にあった点だと指摘した。なぜ人間にあのような行為が可能だったのか、その悪を人びとが積極的に担った原因は何かを、考え続けたのである。1963年には『革命について』を著し、雑誌「ニューヨーカー」に『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を発表して、大論争を巻き起こした。1975年12月4日、自宅で心臓発作により死去した。69歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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