HISTORICAL PERSON · 1974年没

ウォルター・リップマン

アメリカのジャーナリスト・政治評論家。「冷戦」の概念を最初に導入した一人で、「ステレオタイプ」の語を生み、1922年の『世論』で知られる。

生涯
1974年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
アメリカ合衆国(ニューヨーク)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウォルター・リップマンは、1889年9月23日にニューヨークで、ドイツからのユダヤ系移民の三世として生まれたアメリカ合衆国の著作家、ジャーナリスト、政治評論家である。1906年にハーバード大学に入学し、3年間で全単位を修得した。最後の1年は同大学の教授で哲学者のジョージ・サンタヤナの助手を務め、1910年に最優等賞で卒業している。

卒業後は、雑誌の編集助手を探していた著名なジャーナリスト、リンカーン・ステファンズの招きに応じて、雑誌『エヴリバディーズマガジン』の編集に携わった。1912年にはニューヨーク州スケネクタディ市の新市長で、アメリカ社会党のランの補佐になったが、4か月で辞職した。翌1913年に処女作『政治序説』を出し、同じ年に雑誌『ニュー・リパブリック』の創刊にも加わって、セオドア・ルーズベルトとともに「ニュー・ナショナリズム」を説いた。

第一次世界大戦中はウッドロウ・ウィルソン大統領の助言者を務め、情報将校としてフランスに渡って、ドイツ軍に向けた宣伝ビラの作成に当たった。「十四か条の平和原則」の原案作成にも関わったという。各民族の自治権が確立しても、ハプスブルク帝国を解体してはならないとウィルソンに進言し、草案にはオーストリア=ハンガリー帝国の存続が盛り込まれた。しかし同帝国は崩壊し、リップマンは、これが中欧の政治的均衡を壊してヒトラーへの道を開いたと、後々まで嘆いたと伝えられる。ウィルソンが設けた調査機関「インクワイアリー」にも加わり、調査責任者となった。外交問題評議会の「フォーリン・アフェアーズ」にも寄稿していたが、編集責任者の妻との関係が原因で両者は仲違いし、評議会を離れた。

戦後間もない1922年に『世論』を刊行した。大衆社会化する現代でメディアが持つ意味を説いた書で、現代心理学の意味での「ステレオタイプ」という言葉を生み出したことでも知られ、ジャーナリズム論の古典とされる。ジェームズ・W・ケアリーはこの書を、現代ジャーナリズムを創始した著作、アメリカにおけるメディア研究を創始した著作と位置づけたという。その後『ニューヨーク・ワールド』紙の論説委員、編集長を務め、同紙の廃刊に伴い、ライバル紙だった『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙のコラムニストになった。1931年9月8日から同紙に掲載されたコラム「トゥデイ・アンド・トゥモロー」は彼の代名詞となり、シンジケートを通して多くの新聞に載った。民主主義におけるジャーナリズムの役割についての見解は、同時代にジョン・デューイが述べていたものと対照的で、のちにリップマン=デューイ論争と呼ばれた。

マッカーシズムとベトナム戦争には鋭い批判を加え、ジョンソン政権とは「リップマン戦争」と呼ばれる激しい論争を起こした。1967年5月25日の掲載を最後に、このコラムの筆を断った。ピューリッツァー賞は2度受賞しており、ひとつはこのコラムに、もうひとつは1961年のニキータ・フルシチョフへのインタビューに対するものであった。また「冷戦」の概念を最初に導入した人々のひとりともされる。1974年12月14日、ニューヨークで85歳で死去した。20世紀で最も影響力のあったジャーナリスト、「現代ジャーナリズムの父」などとも評されている。

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