伝記
ダヴィッド・オイストラフは、1908年9月30日、ロシア帝国のオデッサ(現在のウクライナ)にユダヤ系の家庭に生まれたヴァイオリニストであり、指揮者でもある。父フョードルは二等商人の子で、母イサベラはオデッサの歌劇場の合唱団員だった。どちらも音楽の才に恵まれ、父はヴァイオリンや管楽器を演奏した。5歳でピョートル・ストリャルスキーにヴァイオリンとヴィオラを習い始め、この師が生涯でただ一人の師となった。子供のころから並外れた才能を示していたわけではなく、音楽院の管弦楽団ではヴィオラを弾いていたが、数か月でソリストの位置に上がり、バッハのイ短調の協奏曲で初舞台を踏んだという。
1923年にオデッサ音楽演劇学院に入り、1926年に卒業した。ニコライ・ヴィリンスキーに和声とポリフォニーを学び、学生のうちからオデッサ交響楽団でソリストや指揮者として活動した。1926年の卒業演奏会では、バッハのシャコンヌやタルティーニの「悪魔のトリル」などを弾いた。1927年にキエフでグラズノフの指揮のもと、そのヴァイオリン協奏曲を独奏し、これを機にレニングラードでチャイコフスキーの協奏曲を弾くよう招かれて、1928年にソリストとして同地でデビューした。1927年にモスクワへ移り、最初のリサイタルを開いて、のちに妻となるピアニスト、タマーラ・ロタレワと出会った。翌年に結婚し、1931年に息子のイーゴリが生まれた。
1934年からモスクワ音楽院で教え、1939年に教授となり、門下にギドン・クレーメルらがいる。1935年に第2回全ソビエトコンクールで優勝し、同年の第2回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールでは、15歳のジネット・ヌヴーに敗れて第2位となった。2年後の1937年、ブリュッセルのウジェーヌ・イザイ・コンクール(現在のエリザベート王妃国際音楽コンクール)で首位を得て、世界にその名を知られた。ただ、ソ連は国民が国外へ出ることに厳しく、オイストラフもしばらく出国を許されなかった。1940年から1963年までは、チェロのクヌシェヴィツキー、ピアノのオボーリンと三重奏を組み、「オイストラフ・トリオ」と呼ばれることもあった。第二次世界大戦中はソ連で活動し、ミャスコフスキーやハチャトゥリアンの新しい協奏曲を初演する一方で、最前線に出て慰問演奏も行った。1953年にソ連人民芸術家の称号を受け、1960年にはレーニン賞を受けた。
弓幅を大きく豊かに使い、速くて振幅の大きなヴィブラートで豊潤な音色を響かせるのが演奏の特色で、チャイコフスキーやブラームスのような情感豊かな曲を得意とした。ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、ヒンデミットの協奏曲の録音で著名であり、ブルッフなど古典的なレパートリーにも通じていた。ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤン指揮ベルリン・フィルとのベートーヴェンの三重協奏曲が知られる。指揮者としては、1961年からモスクワ・フィルハーモニーに所属し、ベルリン・フィルを自ら指揮してモーツァルトの協奏曲を録音した。息子イーゴリとは、1951年にバッハの二重協奏曲を初めて録音するなど、たびたび共演した。使用楽器は1705年製のストラディヴァリウス「マルシック」。1974年、アムステルダムでの演奏旅行中に客死し、遺体はモスクワに送られて埋葬された。
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