伝記
ピウス3世は、1439年にサルテアーノで、ナンノ・トデスキーニと、のちに教皇ピウス2世となるエネア・シルヴィオ・ピッコローミニの妹ラウドミアの四番目の子として生まれた。本名はフランチェスコ・トデスキーニ、のちにフランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニと名乗る。少年のうちに伯父エネア・シルヴィオの家に迎えられ、伯父からピッコローミニ家の名と紋章を用いることを許された。ペルージア大学で教会法を学び、博士号を得た。1457年には、伯父が持っていた聖職禄であるクサンテンのザンクト・フィクトル参事会教会の首席司祭職を与えられ、これを1466年まで、また1476年から1495年まで保持した。
1458年8月に伯父がピウス2世として教皇に選ばれると、ローマの群衆が興奮のあまり一族の家を略奪したため、フランチェスコはしばらくバチカン宮殿で伯父と暮らした。1460年、シエナの司教区の管理者に任じられ、大司教の称号と記章を与えられたが、司教の叙階を実際に受けたのは、のちに教皇として戴冠する1週間前であった。シエナでの司教の職務は補佐司教が担った。同年3月5日には、ピウス2世によって枢機卿に叙せられた。ネポティズム(親族登用主義)の恩恵による登用ではあったが、優秀な人材であったため、その後も歴代の教皇たちに取り立てられた。1460年にはアンコーナ辺境領の教皇特使となり、勉強熱心で有能であることを示した。1461年にはローマのカンポ・デ・フィオーリ近くの土地を購入して一族の邸宅を建て、1463年にはアヴェンティーノの丘のサン・サバ修道院を預かって、3,000ドゥカート以上をかけて修復と装飾を行った。1464年6月にはローマとその他の教皇領の代理に任じられたが、ピウス2世が同年8月にアンコーナで没した。
同年のコンクラーヴェでは、前教皇が任命した枢機卿以外の12人が、自分たちのうちから選ぶと申し合わせていたため、フランチェスコら前教皇の枢機卿は締め出され、ヴェネツィア出身のピエトロ・バルボがパウルス2世に選出された。以後もパウルス2世の時代にはラティスボンの帝国議会に参加し、シクストゥス4世の時代にはウンブリアの教会制度の改革に携わるなど、業績を残した。
やりたい放題であったアレクサンデル6世の没後、教皇庁は混乱の極みに陥った。長年の反アレクサンデル6世で知られたローヴェレ枢機卿(後のユリウス2世)が、フランス王国を後ろ盾に後押ししたこともあって、ボルジア派とローヴェレ派の妥協の候補として、すでに衰えていたフランチェスコが、1503年9月22日に教皇に選出され、ピウス3世を名乗った。教皇位につくとすぐ、腐敗の進んだ教皇庁の改革に取り組もうとしたが、在位26日目の10月18日に急逝した。足にできた潰瘍のためとも、シエナ総督パンドルフォ・ペトルッチが盛った毒のためとも言われる。直後の教皇選挙ではローヴェレ枢機卿が、仇敵アレクサンデル6世の庶子で教皇軍総司令官のチェーザレ・ボルジアの支持を取り付けて教皇に選ばれ、ユリウス2世となった。在位の短さと急死にまつわる陰謀の噂は、20世紀の教皇ヨハネ・パウロ1世と並べて語られることがある。
同じ年に亡くなった人物
- ポンターノ (1503年没)
- ピエール2世 (ブルボン公) (1503年没)
- フリデリク・ヤギェロンチク (1503年没)
- Katherine Tudor (1503年没)
- エリザベス・オブ・ヨーク (サフォーク公妃) (1503年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ヌット・エネマルク・イェンセン (1960年没)
- ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ (1573年没)
- ヴァノッツァ・カタネイ (1518年没)
- イポリット・フランドラン (1864年没)
- ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前234年の執政官) (紀元前216年没)