伝記
ビクトル・ハラは1932年、チリ南部の農村で生まれた。貧しい農家の家に育ち、十歳ごろ家族とともに首都サンティアゴへ移った。母は歌を愛し、家庭でギターを弾いて伝統歌を歌った。父は読み書きができず、子どもを学校より畑で働かせたがったが、母は少しは文字が読め、せめて字を学ばせようとした。十六歳ごろにはパントマイム劇団に参加した。母を失った後、ハラは司祭の勧めで神学校に入り、二年間グレゴリオ聖歌やカトリックの典礼を学んだが、宗教生活を離れた。その後、兵役を終え、チリ大学の合唱団に加わって演劇を志した。大学の演劇課程で学ぶとともに、民謡を研究し演奏する集団にも加わり、舞台表現と歌の両方を深めていった。
1961年、ハラはチリ大学付属の演劇研究所で働き始め、演出家としてさまざまな舞台を手がけた。ロシアの劇作家の作品など社会的主題を持つ舞台に出演し、1964年から1967年には大学で演劇を教えた。1965年にはチリ人作家の『ラ・レモリエンダ』やイギリスの劇作家による『ナック』を演出し、舞台芸術の賞も受けた。古典から実験的な作品まで幅広く演出し、舞台芸術の世界でも評価を得た。1960年代半ばには歌手としても活動を始め、民謡の伝統を受け継ぎながら、愛や平和、社会正義を主題に歌った。社会変革をめざす「新しい歌」運動の中心人物の一人となり、歌を通じて政治や社会に語りかけた。1966年にアルバムを発表し、1969年にはチリ・カトリック大学が主催する音楽祭で『耕す者への祈り』を歌って優勝した。代表的な歌に『アマンダの思い出』や『平和に生きる権利』があり、後者は同名のアルバムとして1971年に発表された。
1970年、人民連合の勝利によってサルバドール・アジェンデ政権が発足すると、筋金入りの共産主義者だったハラは、政権の文化面を代表する存在として知られた。1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍による軍事クーデターで政権が崩壊すると、ハラは軍に逮捕され、サンティアゴの屋内競技場へ連行された。拘束された人々を励まそうと、彼は手拍子に合わせて歌ったと伝えられる。ギターを奪われて両手を撃たれながら歌い続けたという話も広まったが、楽器は持ち込めず、実際には手拍子で歌ったという。その後、ハラは地下へ連れて行かれ、拷問を受けた末、同月16日に銃で殺害された。遺体には四十四か所の銃創があり、近くの貧民街の道に捨てられていたとされる。
軍事政権下での殺害は、ハラの歌が掲げた平和や正義との対照によって、チリの人権侵害を象徴する出来事となった。民主化後、彼が拘束された競技場はビクトル・ハラ・スタジアムと改称され、2009年にはサンティアゴでミシェル・バチェレ大統領らが出席する公式葬儀が行われた。2009年には実行した兵士3名がチリで逮捕、訴追された。2016年にはフロリダの陪審が、元陸軍中尉ペドロ・バリエントスの責任を民事訴訟で認めた。2023年にはチリ最高裁判所が元軍人七人に禁錮約25年の判決を言い渡し、殺害の責任を問う判断が確定した。うち一人は拘置施設へ送られる前に自宅で自殺したという。
同じ年に亡くなった人物
- キッド・オリー (1973年没)
- ロジャー・ウィリアムソン (1973年没)
- ピエロ・ドロゴ (1973年没)
- Timo K. Mukka (1973年没)
- W・H・オーデン (1973年没)
同じ地域に関係する人物
- フェルナンド・エラスリス (1841年没)
- パウル・シェーファー (2010年没)
- Orlando Ramirez (2018年没)
- Guillermo Diaz (1997年没)
- Miguel Flores (2002年没)