伝記
グスタフ六世アドルフは一八八二年、ストックホルム宮殿で後のスウェーデン王グスタフ五世の長男として生まれ、誕生時にスコーネ公とされた。一九〇七年、祖父オスカル二世が死去して父が国王となると王太子になった。王太子の地位に四十年以上とどまったのは、父が長寿で長く王位にあったためで、即位したのは六十八歳になってからだった。王太子となるはずだった長男のグスタフ・アドルフは、一九四七年にコペンハーゲンで航空事故に遭い、父に先立って亡くなっていた。そのため王位継承者となる孫のカール・グスタフは当時幼く、議会では、グスタフ六世の代で王制を終えて共和制に移るべきだという議論もたびたび起きた。やがて孫が成人し、グスタフ六世自身も長寿を保ったことで、王制は存続することになった。
最初の妃マルガレータは、イギリス王室に連なるコノート公アーサーの娘だった。二人の間には長男グスタフ・アドルフをはじめ四男一女の五人の子が生まれたが、マルガレータは一九二〇年に亡くなった。グスタフ六世は一九二三年、ルイーズと再婚した。彼女はマウントバッテン家の出身で、後のエディンバラ公フィリップの叔母にあたる。娘のイングリッドはデンマーク王妃となり、その子がマルグレーテ二世である。グスタフ六世は植物学と考古学の専門家としても知られ、学者国王と呼ばれた。軍人としては、一九〇二年に少尉として任官し、一九三二年には大将まで昇進した。
なかでも東洋の文化や考古学に強い関心を寄せた。王太子だった一九二六年には日本を訪れ、東京、京都、奈良で寺社や遺跡、博物館を視察した。正倉院の三彩陶器については、唐三彩とする説が有力だったが、研究のうえ日本製の奈良三彩だという考えを公表した。さらに、当時日本の統治下にあった朝鮮にも渡り、慶州の瑞鳳塚で行われた発掘作業を視察している。王太子夫妻は一九二六年に米国も訪れ、サンフランシスコではボヘミアン・グローブの野外劇を観ている。一九三四年九月から十二月にかけて、王女イングリッドや王子ベルティルとともに中近東を巡り、ギリシャ、トルコ、シリア、イラク、ペルシャなどを訪問し、ペルセポリスにも滞在した。考古学では特に古代イタリアの文化に関心を持っていたという。
一九五〇年十月二十九日に国王に即位した。政治的な行動は全く取らず、これが後の象徴的な王制へ転換していく端緒になったとされる。即位の際に国民へ向けて発した政治的な誓いのスローガンが「スウェーデンのために、時代と共に」で、のちに国是となった。国王が実際の政治にかかわらない仕組みへの移行が進み、晩年には新憲法で国王の政治権限をなくす変更も承認した。父グスタフ五世は戦中、戦後も昭和天皇と誕生日の祝電を交換し、父王の崩御に際してはグスタフ六世が昭和天皇に親書を送り、以後は父の時代と同じように誕生日の祝電を交わす関係が続いた。ゴルフやテニス、フライフィッシングを楽しむ一面もあり、三男ベルティルのスポーツ好きは父譲りとされた。日本からは一九六二年に大勲位菊花章頸飾を贈られている。一九七三年九月十五日、九十歳で死去するまで在位し、後には一九八〇年発行の十クローナ紙幣にも肖像が使われた。
同じ年に亡くなった人物
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