HISTORICAL PERSON · 1973年没

パブロ・カザルス

スペイン・カタルーニャ出身のチェロ奏者。バッハの無伴奏チェロ組曲の価値を再発見して広め、平和活動家としても知られる。

生涯
1973年没
死亡地
アメリカ合衆国(プエルトリコ / サン・フアン)
出生地
スペイン王国(アル・バンドレイ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(プエルトリコ)

伝記

パブロ・カザルスは一八七六年、スペインのカタルーニャ地方に生まれた。幼い頃から音楽に親しみ、四歳でピアノを始め、六歳で曲を作り、九歳でオルガンを学んだ。十一歳でチェロを弾き始め、母に勧められてバルセロナ市立音楽院に入り、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲を学んだ。少年期にカフェで演奏すると、チェロの名手として評判になり、遠方から聴きに来る客もいた。一八九〇年、楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会い、後にその作品を練習曲ではなく重要な音楽として広く紹介することになる。一八九六年からバルセロナの音楽学校で教え、パリやニューヨークにも滞在しながら演奏旅行を重ねた。一八九九年にパリでデビューし、一九〇四年には無伴奏チェロ組曲を初めて公の演奏会で取り上げた。

カザルスはチェロの奏法にも新しい工夫を加えた。当時の奏者は両肘を脇につけて弓を扱い、左手の指の幅も狭く保つ奏法を用いていた。カザルスは右腕を自由に動かして弓の表現を広げ、左手も脇から離して指の間隔を広げる方法を長い時間をかけて磨いた。自らはそれを革命と呼ばず、音楽的に完全な演奏を目指すために必要だったと述べた。その奏法の確立には十一年から十二年を要し、ヴァイオリンのフランコ・ベルギー派の技法を参考にしたともいわれる。音程も表現の手段とみなし、同じ音階でも上昇する時と下降する時では異なる音程をとる必要があると語った。一九〇五年にはピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーと三重奏団を結成し、一九〇八年には指揮者兼独奏者としてオーケストラの演奏会に出演した。一九一九年には第一次世界大戦の影響でカタルーニャへ戻った。

一九三一年、カタルーニャ自治政府の発足を祝う式典で、自らの楽団と地元の合唱団を率いてベートーヴェンの第九交響曲を指揮した。スペイン内戦が始まると一九三九年にフランスへ亡命し、国境近くのプラドに移った。ナチス・ドイツに迎合する姿勢を示していたコルトーとは決別し、三重奏団の解散にもつながった。フランコ政権への抗議を貫き、一九四五年六月に演奏活動を再開したものの、各国政府がその政権を容認したことに抗議して、同年十一月には公開演奏を停止した。ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダーらの説得を受け、一九五〇年にプラド音楽祭を音楽監督として始めた。後に本拠地を母と妻の故郷であるプエルトリコへ移し、そこで音楽祭を開いた。演奏を控えた間も多くのチェリストがレッスンを受けにプラドを訪れた。

カザルスは反ファシズムの立場を保ち、アルベルト・シュヴァイツァーと核実験禁止運動にも加わった。ストラディヴァリウスを自分には合わないとして使わず、マッテオ・ゴフリラーが一七三三年に製作したチェロを愛用した。一九六〇年には自作のカンタータを初演し、翌年には来日して東京と京都の交響楽団を指揮した。才能教育を学ぶ子どもたちの演奏を聴いた際には、音楽によって世界は救われるだろうと語った。一九七一年、国連本部で演奏し、国連平和賞を受けた。故郷カタルーニャを思い、平和への願いを込めて愛奏した「鳥の歌」もこの場で演奏した。一九七三年、プエルトリコで心臓発作により九十六歳で没し、遺言に従って生地ベンドレイの墓地に埋葬された。

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