伝記
フレゼリク九世は1899年3月11日、後の国王クリスチャン十世とアレクサンドリーネ王妃の長男として生まれた。母はメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ三世の長女で、唯一のきょうだいである弟クヌーズは翌年に生まれた。1906年に祖父がフレゼリク八世として即位し、さらに父が1912年に王位を継ぐと、フレゼリクは王太子となった。王室の慣習では陸軍か海軍のいずれかを選ぶことになっており、彼は海軍を選んで王立海軍士官学校で教育を受けた。コペンハーゲン大学にも進み、1917年から1947年までデンマーク海軍に勤務した。軍務の間に海軍少将となり、実際の指揮職も経験した。1918年12月1日の連合法によりアイスランドの王太子にもなったが、1944年6月17日の共和国成立により同国王位には就かなかった。1930年3月には弟クヌーズと従兄弟アクセルを伴って日本を訪れた。音楽を好み、ピアノを弾き、指揮も行った。海軍勤務中に龍や鳥などの入れ墨を入れたことでも知られる。
1935年5月24日、スウェーデン国王グスタフ六世アドルフの娘イングリッド王女と結婚した。二人の間にはマルグレーテ、ベネディクテ、アンネ=マリーの三人の娘が生まれた。長女は1940年、次女は1944年、三女は1946年生まれで、後にベネディクテはザイン=ヴィトゲンシュタイン侯リヒャルトと結婚し、アンネ=マリーはギリシャ王コンスタンティノス二世の王妃となった。第二次世界大戦中、ドイツがデンマークを占領していた時期には、父が落馬事故で負傷したため、1942年から翌年にかけて摂政を務めた。父クリスチャン十世が1947年4月に死去すると、フレゼリクは国王となった。その即位日は4月20日だった。
在位中、デンマーク社会は大きく変化し、福祉国家の仕組みが拡充した。1960年代の好況に伴って女性の労働市場への参加が進み、社会の変化は王室にも新しい役割を求めた。フレゼリクには男子がなく、当時の王位継承法では弟クヌーズが継承者となる予定だった。しかし第二次大戦中にナチス寄りとされたクヌーズとその息子たちは国民の人気を得ていなかった。1953年の法改正では男子優先を保ちながら女子の継承も認められ、フレゼリクの長女マルグレーテが王位継承者となった。
フレゼリクは王位継承法の改正後も男子に恵まれず、1972年1月14日に死去すると、長女がマルグレーテ二世として即位した。歴代の国王はロスキレ大聖堂の堂内に埋葬されてきたが、本人の希望により、フレゼリクは大聖堂の外に葬られた。胸や両腕の入れ墨について、1949年のイギリス訪問時には、彫師の王と呼ばれた人物に彫り直しを依頼したとされる。1951年には、鍛錬に取り組む国王の記事とともに、入れ墨のある上半身の写真が米国の雑誌に掲載された。パイプたばこを愛好し、特注の配合を使っていたとされ、その配合はデンマークのたばこ商ポール・オルセンの銘柄「マイ・オウン・ブレンド」の品揃えに加えられた。音楽ではデンマーク王立管弦楽団を指揮し、シューベルトの「未完成」交響曲などの録音も発売された。
同じ年に亡くなった人物
- レーン・チャンドラー (1972年没)
- ララ・アンデルセン (1972年没)
- エイキム・タミロフ (1972年没)
- ジョン・ハッチンソン (植物学者) (1972年没)
- ギュンター・アイヒ (1972年没)
同じ地域に関係する人物
- アクセル・オルリック (1917年没)
- フィリップ・シャイデマン (1939年没)
- カール・ヴェルナー (1896年没)
- フレゼリク・ア・ダンマーク (1753-1805) (1805年没)
- マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后) (1928年没)