伝記
ディーノ・ブッツァーティは一九〇六年十月十六日、先祖が過ごした北イタリアのベッルーノ近くにあるサン・ペレグリーノに生まれた。父は古くからのベッルーノ家の出身で国際法の教授、母はヴェネツィア生まれの獣医で、四人きょうだいの二番目だった。兄弟の一人アドリアーノは遺伝学者で、父ジュリオ・チェーザレは法学者として同じ大学で教え、一九二〇年に亡くなった。一九二四年にミラノ大学法学部へ入り、在学中に二年間の兵役を務めた。父も教えた大学を一九二八年に卒業する頃、ミラノの日刊紙「コリエーレ・デラ・セラ」に採用された。校正係から出発し、記者、特派員、随筆家、編集者、批評家として働き、死ぬまで同紙に在籍した。現実を伝える新聞記者としての経験は、幻想的な物語にも報道のような確かな手触りを持たせたとされる。本人も、夢や空想の物語は新聞記事のように平明で実用的な言葉で語るべきだと考えていた。
一九三三年に最初の小説『山のバルナボ』を刊行したが、ほとんど注目されなかった。第二次世界大戦中は海軍付きの記者としてアフリカへ赴き、一九三九年には特派員としてエチオピアに派遣された。翌年には巡洋艦に乗り、マタパン岬沖やシルテ湾での海戦を報道した。『タタール人の砂漠』は批評家に認められ、名声を得るきっかけとなった。一九四二年の短編集『七人の使者』も高い評価を受け、短編作家としても知られるようになった。幻想的で不条理な作風から、イタリアのカフカと称されることもあり、イタロ・カルヴィーノと並ぶ二十世紀イタリア文学の代表的な作家とされる。
ブッツァーティの長編小説は五作を数え、『古森の秘密』『偉大なる幻影』『ある愛』などを発表した。小説や短編のほか、詩、評論、劇、ラジオ劇、オペラ台本を書き、画家としても作品を発表した。オペラ台本はルシアーノ・チャイリーの作品のために四編、ジュリオ・ヴィオッツィの作品のためにも一編を書いた。一九五〇年代には短編「七階」が戯曲化され、ミラノで個展も開かれた。一九五八年には短編集『六十の物語』でストレーガ賞を受賞した。一九四五年には童話『シチリアを征服したクマ王国の物語』を書き、これは二〇一九年にアニメ映画化された。また、オルフェウス神話を下敷きにした漫画作品も制作した。長編小説では、駐屯地の兵士たちが敵の侵入を待ち続ける『タタール人の砂漠』が最もよく知られ、短編集とともに彼の名を広めた。『タタール人の砂漠』の心情や結末は、実存主義者の作品、とりわけカミュの『シーシュポスの神話』と比較されてきた。
一九六四年、ブッツァーティはアルメラ・アントニアッツィと結婚した。この結婚によって、最後の作品とされる『ある愛』が生まれたという。幻想的で不条理な物語の一方で、野放図な技術の進歩や環境の変化、社会から疎外される人々も繰り返し取り上げた。著作は魔術的現実主義や社会的疎外の観点から論じられることもある。短編では想像上の怪物や、彼が創作した海の生き物コロンブレなども題材にした。記者として取材を重ね、創作と絵画を行き来した生涯の後、長い病を経て一九七二年一月二十八日に癌で没した。
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