伝記
イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイは、1889年5月25日にロシア帝国のキエフ(現在のウクライナのキーウ)の自宅で生まれた航空技術者で飛行家である。五人きょうだいの末っ子で、父イヴァンは聖ヴラジーミル大学の心理学の教授、国際的に名の知られた精神科医で、熱烈なロシア民族主義者でもあった。母マリーヤは医師だったが、職業としては働かなかった。母は自宅で教育にあたり、芸術、とくにレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と仕事や、ジュール・ヴェルヌの物語への愛を伝えた。1900年、11歳のときに父とドイツへ行き、会話を通じて自然科学に興味を持った。帰国後に模型の飛行機の実験を始め、12歳でゴム動力の小さなヘリコプターを作ったという。1903年、14歳でサンクトペテルブルクの海軍幼年学校に入ったが、1906年に自分の将来は工学にあると考え、成績は悪くなかったのに退学して、パリで学んだ。
1907年にキエフ工科大学の機械科に入学した。翌1908年の夏、父と訪れたドイツで、ライト兄弟の飛行機やツェッペリンの飛行船の成果を知り、「24時間以内に、生涯の仕事を変えようと決めた。航空を学ぼうと」と後に語っている。1909年に姉の資金援助を受けてパリに戻り、航空の先駆者たちに会って質問を重ねた。同年5月にロシアに戻って最初のヘリコプターの設計を始めたが、揚力が機体の重さに足りず、10月に解体した。1910年には2機目のヘリコプターと最初の飛行機を作り始めた。当時の技術や資金では成功は難しいと悟り、航空機の開発で大きな成果をあげることになる。1910年に初の独自設計の固定翼機S-1を製作し、5機目のS-5で国内で知られるようになった。
1913年、世界初の4発機S-21「ルースキイ・ヴィーチャシ」を初飛行させ、世界初の量産4発旅客機S-22「イリヤー・ムーロメツ」も初飛行させた。これは第一次世界大戦で爆撃機として使われた。1914年の開戦までに、キエフの航空機の研究・製造事業は順調で、工場は戦時中に爆撃機を作った。1917年のロシア革命の後、ボリシェヴィキに「皇帝の友人で人気者」として銃殺すると脅され、1918年の初めに祖国を逃れて、フランスに移った。新型機の設計契約を提示されたが、11月に戦争が終わると、フランス政府が軍の注文への補助をやめたため、アメリカへ移ることにした。1919年3月に出航し、30日にニューヨークに着いた。亡命の際、妻のオリガは離婚して、娘のタニアとともに祖国に留まった。
1923年、ニューヨークのロングアイランドにシコルスキー・エアクラフトを設立した。同年、妹たちが娘を連れてアメリカに移住してきた。1928年に水陸両用の飛行艇S-38を開発し、アメリカ各地で広く使われて、彼と会社の名を有名にした。同じ年にアメリカに帰化した。1930年代にはパン・アメリカン航空の大洋横断飛行艇も開発した。1939年9月14日、コネチカット州でシングルローターのヘリコプターVS-300を、ロープでつないだ状態で飛行させ、翌1940年5月13日に自由飛行に成功した。単一の主ローターと尾部ローターという、今日のヘリコプターの大半が用いる形式を切り開いたものである。1942年にはVS-316A(R-4)が軍用として納入され、世界初の量産ヘリコプターとなった。戦後のS-51に始まるシリーズはベストセラーとなり、ヘリコプターが世界に普及するきっかけとなった。1972年10月26日、亡命後ずっと住んだコネチカット州イーストンで、83歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- イレーネ・テュンク (1972年没)
- Yevgeny Babich (1972年没)
- ウィリアム・ボイド (1972年没)
- ウィリアム・オブ・グロスター (1972年没)
- カール・スターリング (1972年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨーゼフ・シュンペーター (1950年没)
- Alexander Kipnis (1978年没)
- Attilio Giovannini (2005年没)
- チャールズ・ドレイク (1994年没)
- 龔品梅 (2000年没)