伝記
クワメ・エンクルマは、1909年9月21日に、イギリス領ゴールド・コーストの西部海岸にあるンクロフルで、アカン人のンズイマ人の鍛冶屋の家に生まれ、のちにガーナの初代大統領となった政治家である。独立運動を指揮し、ギニアとのアフリカ諸国連合を樹立して、アフリカの独立運動の父といわれる。南部のアカン人の間では、生まれた曜日と性別で名が決まり、土曜日に生まれた男児である彼にはクワメの名が付けられた。1927年に首都アクラの学校に入り、1930年に卒業すると、カトリックの小神学校の教師として各地で教えた。成績優秀だったため、1935年、親族に借金してアメリカに渡り、リンカーン大学に入学した。同年、イタリアのエチオピア侵攻を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志した。奨学金を取りながら苦学し、1942年にペンシルベニア大学大学院で教育学の修士号を、翌年に哲学の修士号を取得した。この間、アメリカやカナダにいるアフリカ人留学生の組織化に努め、ガーベイやデュボイスの思想に影響を受けて、パン・アフリカ主義の立場をとった。
1945年5月にイギリスに渡り、ロンドンで西アフリカ学生同盟の副会長になった。同年、マンチェスターで開かれた第5回パン・アフリカ会議では、のちに盟友となるジョージ・パドモアとともに書記を務めた。この会議には、ケニアのケニヤッタなど、アフリカ大陸の独立指導者が多く参加し、アフリカ大陸出身者がパン・アフリカ主義の中心となるきっかけとなった。1947年にゴールド・コーストで結成された統一ゴールド・コースト会議の求めに応じて、12月に帰国し、事務局長に就任した。1948年に暴動が起き、植民地当局は党が煽動したとして首脳6人とともに彼を逮捕したが、かえって党の人気は高まった。
イギリス調査団が提言した自治の拡大に、党は賛成したが、彼は即時自治を求めて党首脳部と対立し、1949年に脱党して会議人民党を結成した。ストライキやボイコットを中心とした「ポジティブ・アクション」を打ち出し、下層住民の支持を得て、党勢は急速に拡大した。1950年1月のデモで逮捕されたが、1951年2月の選挙で党が大勝し、獄中から立候補した彼も当選して、釈放された。総督に組閣を命じられて政府事務主席となり、交渉による平和的な独立へと方針を転換した。1952年に首相となり、1954年の新憲法で内政の自治を認めさせ、選挙でも会議人民党が圧勝した。1957年、ゴールド・コーストはイギリス領トーゴランドとともに独立して、古代の大王国にちなんでガーナと名づけられ、彼は初代首相に就任した。
独立後は、アフリカ諸国の独立支援と連帯に力を入れた。1958年4月には、独立していたアフリカの8か国の首脳をアクラに招き、アフリカ独立諸国会議を開いた。ギニアのセク・トゥーレと協力して、同年11月にアフリカ諸国連合を結成し、のちにマリも加わった。1960年7月に共和制を採って初代大統領となり、1961年にはデュボイスをガーナに招いた。非同盟主義の主唱者のひとりとなり、1962年にはソ連からレーニン平和賞を贈られた。一方、国内では中央集権を進め、伝統首長や地方勢力と対立し、1958年には裁判なしの投獄を可能とする予防拘禁法を通した。野党の指導者は逮捕され、1964年に野党は禁止されて、ガーナは一党独裁制となった。1962年に暗殺未遂があり、個人崇拝を強制するようになった。1965年にアフリカ統一機構の第3代総会議長に就任したが、クーデターで1966年2月24日に職を離れ、1972年4月27日に死去した。
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