HISTORICAL PERSON · 165年没

ユスティノス

2世紀のキリスト教神学者で、最初期の護教家。哲学の諸派を遍歴してキリスト教に至り、ギリシア哲学のロゴスをキリスト教思想に取り入れた。『第一弁明』などを著し、165年にローマで殉教したと伝わる。

生涯
165年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
パレスチナ国(ナーブルス)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ユスティノスは、殉教者ユスティノスとも呼ばれる2世紀のキリスト教神学者である。生年は100年ごろとされ、165年にローマで殉教したと伝えられる。ギリシア教父の系統に属し、最初期の護教家の一人として、信仰を合理的に擁護しようとした第一人者である。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人として崇敬されている。

自身の著述によれば、サマリアのフラウィア・ネアポリス、現在のパレスチナ自治区ナーブルスの出身で、父はプリスクスといった。祖父の名はギリシア風、父の名はローマ風であったため、先祖はこの町の建設後まもなく移り住んだか、ローマ人の共同体の出だったのではないかと推測されている。異教徒の家に生まれ、ヘレニズム文化の中で育ち、ヘブライ語やアラム語はほとんど知らず、ユダヤ教の知識も浅かったとされる。若いころから知識への渇望に導かれて哲学を学び、まずストア派の門をたたいたが、師は神の本質を説明できなかった。次に逍遥学派に進んだが、師は授業よりも前払いの謝礼に関心があった。ピタゴラス派には、音楽・天文・幾何学の予備学習を求められて断られた。最終的にプラトン哲学に傾き、イデア論に感銘を受けて形而上学を深め、哲学の神を探し求めた。

132年から135年のあいだのある日、エフェソス近くの海辺を歩いていると、一人の老人がキリストと預言者たちの書物へと注意を向けさせたという。信徒たちが殉教を前にしても平然としている様子を見て、彼らが人肉を食らい快楽にふける集団だという噂は誤りだと確信し、ハドリアヌス帝の時代にエフェソスで洗礼を受けた。以後、哲学者のマントをまとって各地を巡り、「真の哲学」としてキリスト教を説いた。150年ごろにローマへ移り、浴場の上階を借りて私塾を開き、タティアノスやリヨンのエイレナイオスらが学んだとされる。当時盛んだったグノーシス主義は、正統な信仰をゆがめるものとして激しく批判した。

思想の特徴は、ギリシア哲学の用語であるロゴスをキリスト教に取り入れ、イエスこそが完全なロゴスであると考えたことにある。プラトン哲学を土台に、古代哲学は真理に至る前段階であり、断片的な真理があるのは、種子的ロゴスのためだとした。この考えは種子的ロゴス論と呼ばれる。また、火から新しい火を起こしても元の火は損なわれないという例えを用いて、父と子の関係を説明しようとした。父と子を別個の位格として区別しながら、本性的には同等だとし、のちに広まる三位一体の神学用語の多くを先に用いたとされる。

現存する著作には、ユダヤ人トリュフォンとの二日間にわたる対話を記した142章の大著『ユダヤ人トリュフォンとの対話』と、皇帝と元老院にあてた形の『第一弁明』『第二弁明』がある。『弁明』では、異教の著作者の中にもキリスト教の真理の痕跡が認められると主張した。文章には脱線や繰り返しが多く、計画よりもその場の着想に導かれて書いたと見られるが、率直さと誠実さがあり、相手を理を尽くして説得しようとする姿勢が貫かれている。『全異端反駁』『マルキオン反駁』などは失われた。晩年、論破した哲学者の陰謀で捕らえられ、都市長官ルスティクスにより、弟子たちとともに異教の神々への供犠を拒んだ罪で死刑とされたという。

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