伝記
フリードリヒ3世は、1415年9月21日にインスブルックで生まれたハプスブルク家の君主である。父はオーストリア公エルンスト(鉄公)、母はツィンバルカ・マゾヴィエツカ。ハプスブルク家としては5人目のローマ王(在位1440年から1493年)で、1452年3月19日に同家で初めて神聖ローマ皇帝として戴冠した。元はオーストリア公フリードリヒ5世で、のちにオーストリア大公となり、ローマ王としてはフリードリヒ4世にあたる。ローマ王アルブレヒト1世の玄孫だが、同家でも傍系のレオポルト系の生まれである。1424年に父が死ぬと、幼くして弟アルブレヒト6世を共同統治者として内オーストリアの所領を相続した。
1439年、又従兄のローマ王アルブレヒト2世が、対オスマン帝国戦に出陣中、赤痢のため在位1年余りで急死した。男子は死の翌年に生まれたラディスラウス・ポストゥムスだけで、フリードリヒはその後見人に選ばれるとともに自身もローマ王に選ばれた。オスマン帝国への防波堤としての期待があったほか、御しやすい人物だと見られたことも選出の理由だったとされる。しかし当時は、内オーストリアでは弟が共同統治者で、アルブレヒト2世の遺領はラディスラウスに属し、チロルは従弟ジークムントが有しており、十分な資力は伴っていなかった。1452年にはポルトガル王ドゥアルテ1世の娘エレオノーレと結婚するためローマに向かい、戴冠式と結婚式を同時に行った。ローマで戴冠した皇帝は、彼が最後となる。1457年にラディスラウスが17歳で夭折すると、ボヘミアとハンガリーの王位はいったんハプスブルク家を離れたが、オーストリアの遺領は彼のものとなった。
治世は苦難が続き、死後は「大愚図」という綽名を贈られた。1453年にコンスタンティノープルが陥落したときは関心を示さなかったという。1463年には弟アルブレヒト6世がウィーンの不穏分子を煽って暴動を起こし、エレオノーレと子のマクシミリアンを幽閉して、皇帝は入城できないまま追い払われた。ハンガリーでは、フニャディ・ヤーノシュの子マーチャーシュが1458年に正式に王に選ばれ、1479年のオロモウツの和約でオーストリア大公の地位さえ奪い、1485年以降はウィーンも占領されて、皇帝はリンツへ宮廷を移した。しかしマーチャーシュが1490年に子を残さず死ぬと、三たびウィーンへ戻って支配を回復し、同年に従弟ジークムントが領主権をマクシミリアンに譲って、ハプスブルク家の領地は親子の下に統合された。
唯一の成功とされるのが婚姻政策である。ブルゴーニュ公シャルル豪胆公の一人娘マリーとの縁談をめぐり、1473年にトリーアで会見したが、豪胆公の要求に皇帝は明言を避け、一行は夜半に立ち去った。それでも豪胆公はマクシミリアンを気に入っており、1477年1月5日にナンシーの戦いで戦死した後、マクシミリアンとマリーが結婚した。ネーデルラントやフランシュ=コンテは二人のものになり、のちの発展の礎となった。ルドルフ4世の「大特許状」を帝国法に組み込んだのも彼で、大公の称号は帝国法により正式なものとなった。1442年にフランクフルトの帝国議会で発した法律の条文には「神聖ローマ帝国とドイツ国民」という表現が現れ。皇后エレオノーレとの間には3男2女が生まれ、成人したのは2人で、1459年3月22日に待望の男子マクシミリアンが誕生した。占星術に傾倒し、あらゆる物に「A・E・I・O・U」の標語を彫らせたことでも知られる。1493年8月19日、77歳でリンツにて死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス (1493年(推定))
- トゥパック・インカ・ユパンキ (1493年没)
- ザガル (1493年没)
- Aixa (1493年(推定))
- エレオノーラ・ダラゴーナ (1450-1493) (1493年)
同じ地域に関係する人物
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