HISTORICAL PERSON · 1971年没

ディーン・アチソン

アメリカの政治家・弁護士で、国務長官を歴任した。冷戦初期のアメリカ外交を形作った人物と評される。

生涯
1971年没
死亡地
アメリカ合衆国(メリーランド州 / Sandy Spring)
出生地
アメリカ合衆国(ミドルタウン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メリーランド州)

伝記

ディーン・グッダーハム・アチソンは、1893年4月11日、コネチカット州ミドルタウンで生まれたアメリカの政治家・弁護士で、国務長官を務めた。父エドワードはイギリス生まれで、カナダ育ちの牧師であり、のちに主教になった。母エレノアはカナダ生まれで、トロントの醸造会社の創業者の子孫にあたる。父と同じく民主党の熱心な支持者で、禁酒法に反対していた。グロトン校を経て、1912年にイェール大学に入り、有名な秘密結社の一員となった。パーティー好きでいたずら好きという評判があり、傲慢だとの評も早くからあった。コール・ポーターやアーチボルド・マクリーシュと親しかった。1915年に卒業すると、ハーバード大学ロースクールに進み、教授のフェリックス・フランクフルターの知性に心酔して、1918年に5番の成績で修了した。1917年5月にアリス・キャロライン・スタンリーと結婚し、三人の子をもうけた。

1919年から1921年までは、最高裁判事ルイス・ブランダイスの書記を務めた。その後、ワシントンの法律事務所で働いていたが、1933年にフランクリン・ルーズベルト政権の財務次官に任命された。しかし同年11月、平価切り下げに反対して辞任し、弁護士業に戻った。1941年2月に経済担当の国務次官補として再び起用され、1945年8月まで務めた。この間、イギリスへの支援や日本への石油禁輸などの経済政策を実施し、1944年7月にはブレトン・ウッズ会議に国務省の首席代表として出席した。日本の降伏が間近な頃には、天皇制は時代錯誤で危険な封建的制度だと論じ、存続を認めたグルー国務次官と議論した。

1945年8月にトルーマン大統領から国務次官に任命され、続く2年間は、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たした。革命の危険がある国々で共産主義の拡大を止める最良の方法は、それらの国々の進歩的な勢力と連携することだと主張した。1949年1月、マーシャルの後任として国務長官に就任し、共産主義の封じ込め政策を続け、北大西洋条約機構の結成に尽力した。1950年1月には、日本、沖縄、フィリピン、アリューシャン列島への侵略にはアメリカが断固反撃するとした、いわゆるアチソン・ラインの演説を行った。この演説は台湾や朝鮮半島などを除外地域としたため、朝鮮戦争の誘因になったとされる。アチソンの政策は受動的な封じ込めだとして、ジョセフ・マッカーシーら共和党の急進的な議員に攻撃され、1950年12月には下院の共和党が満場一致で罷免を可決した。国務省職員アルジャー・ヒスがスパイだと糾弾された際には、子どもの頃から知っていたヒスの無罪を確信して支援し、結果としてマッカーシズムの高まりに貢献してしまった。朝鮮戦争では、戦争を半島内に限定しようとするトルーマンの側に立ち、中国への戦線拡大を求めたマッカーサー将軍が解任された。

1953年1月に国務長官を退任し、弁護士業に戻ったが、影響力は保ち続けた。ケネディ、ジョンソン、ニクソンの各政権の非公式な助言者となり、1962年10月のキューバ危機では、ケネディ大統領に執行委員会に招かれた。1962年1月には夫人とともに訪日し、昭和天皇に謁見した。1964年に大統領自由勲章を受け、ベトナム戦争が激化すると、ジョンソン大統領に北ベトナムとの和平交渉を助言した。1970年、国務省時代を回想した『創造の時に立ち会って』でピューリッツァー賞を受賞した。1971年10月12日、メリーランド州で78歳で亡くなった。

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