伝記
マーチャーシュ1世は、1443年2月23日にトランシルヴァニアのコロジュヴァール(現在のルーマニアのクルージュ=ナポカ)で、フニャディ・ヤーノシュの次男として生まれた。母はシラージ・エルジェーベトである。父は摂政としてオスマン帝国との戦いで戦果を挙げ、家庭教師には学者のヴィテーズ・ヤーノシュらがつき、ドイツ語、イタリア語、ルーマニア語、ラテン語や主なスラヴ語を学んだとされる。この古典的な教育が、後にイタリア・ルネサンスへの関心につながったと説明される。12歳のころから父の遠征に連れられ、1456年のベオグラードの戦いの父の勝利の後、父はペストで没した。
父の死後、ハンガリー貴族の内紛が起き、兄のラースローはヤーノシュとともに従軍して功績があったが、処刑されてしまった。マーチャーシュもブダで陰謀に加わったとされて投獄され、斬首を宣告されたが、若さのために助かったと伝えられる。その後、ボヘミアの総督ポジェブラディ・イジーに人質として連れて行かれ、その娘との婚約を条件に釈放された。兄の死によって、大貴族と対立する中小貴族の支持がマーチャーシュに集まり、1458年、17歳でハンガリー王に選ばれた。1461年に結婚したイジーの娘カテジナとは、3年足らずで死別し、後にナポリ王の娘ベアトリーチェを妃に迎えたが、どちらとの間にも子はなかった。同じ年には、上部ハンガリーを支配していた傭兵隊長ギシュクラを破って配下とした。
彼は王軍を常備軍として設置して中央集権化を進め、中世ハンガリーの最盛期を築いた。教皇ピウス2世の要請でフス派が勢力を持つボヘミアへ1468年に出兵してモラヴィアを占領し、1471年にはシレジアと上ラウジッツも占領した。一時は1485年にウィーンを陥落させ、1479年のオロモウツの和約でシレジア、モラヴィア、ラウジッツの領有とボヘミア王位が認められ、ハンガリー最大の版図を実現した。ワラキア公ヴラド3世とは同盟関係にあったが、逃げ込んできたヴラドをオスマン帝国に内通したとして幽閉した。事実は逆で、弟ラドゥこそが親オスマン勢力であり、マーチャーシュは十字軍を放棄する口実にヴラドを利用したといわれる。1475年にオスマン軍がモルダヴィアへ攻め込むと、ヴラドはようやく解放された。一方でオスマン帝国に対しては、直接兵を向けて阻むことが少なかった。
ルネサンス文化の奨励でも知られる。イタリアから建築家や文化人をブダの王宮に招き、ハンガリーの若者を外国に留学させたことで、ブダはルネサンス文化の一中心地となった。ポジョニに大学を設立し、王立図書館には、コルヴィナ文庫として知られる写本が2000巻集められた。ブダ王宮の丘の聖母教会を増築し、ここで2度結婚式を挙げたことから、後にマーチャーシュ教会と呼ばれるようになった。コルヴィヌスは烏を意味するラテン語名で、家の紋章の烏に由来する。身分を隠して国内をまわったという伝説も残り、「正義王」の異名を持つ。
1490年4月6日、ウィーンで47歳で急死した。今もハンガリーの1000フォリント紙幣には、その肖像が印刷されている。嫡子がなかったため、ドイツ人の平民女性との間の庶子コルヴィン・ヤーノシュを後継者にしようと運動したが、王妃ベアトリーチェを含む多くの反対に遭って断念した。王位はボヘミア王ヴラジスラフが継ぎ、抑えられていた大貴族の専横が再び強まり、王軍も弱体化して、1526年のモハーチの戦いでハンガリーはオスマン帝国に決定的な敗北を喫した。
同じ年に亡くなった人物
- イサベル・デ・ビリェナ (1490年)
- ジョアナ・デ・ポルトゥガル (1490年没)
- イヴァン・マラドイ (1490年没)
- ラオニコス・ハルココンディリス (1490年)
- バルトロメオ・ヴィヴァリーニ (1490年代没)
同じ地域に関係する人物
- カール・クラウス (作家) (1936年没)
- ヨーゼフ・ダンハウザー (1845年没)
- Maria Orska (1930年没)
- マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ (1862年没)
- フランツ・S・エクスナー (1926年没)