伝記
オットー・ハインリッヒ・ワールブルクは、1883年10月8日に、スイスとの国境に近いドイツのフライブルクで生まれた生理学者・医師である。姓はヴァールブルクとも表記される。4人きょうだいの中でただ一人の男の子だった。父エミールは大学の物理学教授で、アインシュタインの親友でもあり、その両親は正統派のユダヤ教徒だったが、プロテスタントに改宗していた。母エリーザベトは由緒あるドイツ人の家の出である。彼はヘッセン方伯の銀行家だったシモン・ヤコブの、10代目の直系の子孫にあたる。シモンはカトリックへの改宗を迫られて拒み、ハンブルク近郊のアルトナに移って、故郷の町の名を姓にし、有力なヴァールブルク家の祖となったと伝えられる。
1895年、12歳でベルリンのギムナジウムに入り、成績はよかったが、いたずら好きで規律に従わず、自分の思うように動く生徒だったという。父を通じて、ベルリンの科学者の中心にいる人々との縁があった。1901年にフライブルク大学で化学を学び始め、ベルリン大学でエミール・フィッシャーの指導を受けて学業を終えた。フィッシャーからは、まじめさと誠実さに基づく厳格な研究の作法を学び、生涯それを保った。1906年に化学の博士号を、1911年にはハイデルベルク大学で医学の博士号を取得した。ルードルフ・フォン・クレールの生理学研究所で1914年まで働き、ナポリの臨海実験所にもたびたび足を運んだ。1913年、30歳でカイザー・ヴィルヘルム協会の研究員となった。
1914年に志願して、プロイセンの近衛槍騎兵連隊に入り、中尉に昇進した。東部戦線で負傷し、鉄十字章を受けている。戦争が終わる数か月前にアインシュタインから、負けつつある戦争で命を危険にさらすより、学者として国に仕えるほうがよいと勧める手紙が届き、彼はこれに従って軍を離れた。1918年に民間に戻り、ベルリン・ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所に職を得た。1921年から1927年にはベルリン大学の助教授も務めた。腫瘍の代謝と、細胞の呼吸、とくにがん細胞の呼吸を研究し、1931年に「呼吸酵素の性質と作用機構の発見」によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。同じ年、彼のために設けられた細胞生理学研究所の所長となり、1953年までその職にあって、1970年に亡くなるまで、ほとんど中断せずに研究を続けた。師たちとは異なり、大学で教える職や管理職に就くことはなく、少人数の研究室を持つ純粋な研究者であり続けた。
ナチスが政権を握った後も、ユダヤ系の出自を持つ彼がドイツで生き延びたのは、稀有な例としてしばしば挙げられる。通説の一つでは、母をがんで失ったヒトラーが、がんの研究を非常に重視していたため、迫害を免れたとされる。ロックフェラー財団から資金提供とアメリカへの移住を打診されたが、ドイツにとどまった。1943年にはベルリン空襲を避けて研究所を北のリーベンベルクへ移したが、1945年にソ連軍に研究室を略奪され、機器は戻らなかった。戦後の1962年に『細胞生理学の新方法』を執筆し、同年パウル・エールリヒ・ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受賞した。低酸素の状態で腫瘍が発達することを最初に実証し、1966年6月30日にリンダウのノーベル賞受賞者会議で、がんの根本的な原因と予防について発表した。がん細胞の発生の根本的な原因は嫌気的なものだと述べた。1970年8月1日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・ルイーズ・ストロング (1970年没)
- ヘートヴィヒ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (1970年没)
- ケーテ・クラウス (1970年没)
- ラルフ・ハートレー (1970年没)
- ルドルフ=ヘルマン・フォン・アルフェンスレーベン (1970年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・フリードリヒ・クリスティアン・ファッシュ (1800年没)
- ジュゼッペ・サルティ (1802年没)
- アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1890年没)
- ペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (1944年没)
- ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ (1916年没)