伝記
エーリヒ・マリア・レマルクは、1898年6月22日にプロイセン王国ハノーファー地方のオスナブリュックで、エーリヒ・パウル・レマルクとして生まれたドイツの小説家である。ペンネームは、家名のつづりをフランス語風にし、「パウル」の部分を「マリア」に置き換えたものである。曽祖父は1789年にアーヘンでフランス人の家に生まれたことが判明している。家はカトリックを信仰し、父ペーター・フランツは製本を仕事とする典型的な労働者階級だった。経済的に豊かではなかったが、学業に秀でてギムナジウムに進み、16歳のころから詩作などを趣味にした。在学中に第一次世界大戦が勃発し、約3年後の18歳のとき、教師に説得されて、級友たちとともに志願した。
1917年6月に西部戦線に配属されて北フランスに送られ、6月26日にベルギーのフランデレンに展開する連隊の工兵小隊の一員として、塹壕戦を経験した。7月31日、榴弾の破片で左足と右腕、首に重傷を負い、本国に送還された。デュースブルクの軍病院で長期の治療を命じられ、回復を待つうちに、1918年11月のドイツ革命で戦争は終わった。故郷に戻ってギムナジウムを卒業し、1919年8月に教員資格を取得して小学校に赴任したが、1920年11月に教師を辞めた。その後は図書館司書、編集者、ジャーナリストなどを経て、作家として活動するようになった。自動車部品の会社から、テクニカルライターの依頼を受けたこともある。
1929年、従軍する兵士たちの姿を描いた戦争小説『西部戦線異状なし』を発表し、大ベストセラーとなって、31歳で人気作家の仲間入りをした。主人公パウルは、自身を投影した人物と考えられている。各国語に翻訳され、翌年にはハリウッドで映画化されてアカデミー賞を受けた。1931年には、敗戦後の社会不安の中を生きる復員兵たちを描く『還り行く道』を発表した。しかしナチスが台頭して右傾化するドイツでは、反戦的だと批判され、身の危険を感じて1932年にスイスへ亡命した。1933年にヒトラーが政権を握ると、「レマルクはフランス系ユダヤ人の末裔だ」といった虚偽に基づく宣伝が広まり、書籍は焚書となった。妹エルフリーデは人民法廷に送られ、1943年に処刑された。1938年にドイツ国籍を剥奪され、翌年にアメリカへ亡命して、1947年にアメリカ国籍を取得した。妹の死を1946年に知り、強制収容所の囚人たちを題材にした作品を彼女に捧げた。
『汝の隣人を愛せ』の姉妹篇で、第二次世界大戦前夜のパリを舞台にした『凱旋門』が発表されると、登場人物の飲むカルヴァドスが世界的な流行になった。二度の世界大戦を描いた作家としての存在は、不動のものとなった。映画『愛する時と死する時』(1958年)では、ゲシュタポに追われる教師の役で友情出演している。1967年には西ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労勲章大十字章を授与されたが、ドイツ国籍は、生涯回復されなかった。1925年にダンサーのジュッタ・イルゼ・ザンボナと結婚して1930年に離婚し、1938年に彼女と再婚して、1957年まで続いた。この再婚で彼女はスイスへの移住とアメリカへの亡命が可能になった。アメリカの社交界では女性関係で知られ、マレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボとも浮名を流した。1958年にチャップリンの元妻で女優のポーレット・ゴダードと結婚し、スイスのティチーノ州で暮らした。1970年9月25日、ロカルノ滞在中に、動脈硬化症に起因する大動脈瘤で亡くなった。1991年には、故郷で「レマルク平和賞」が設立された。
同じ年に亡くなった人物
- 樋口季一郎 (1970年没)
- ミハイル・ミーリ (1970年没)
- ヒャルマル・シャハト (1970年没)
- ブッカー・アーヴィン (1970年没)
- テオ・サラポ (1970年没)
同じ地域に関係する人物
- エーリヒ・フロム (1980年没)
- シルビオ・モーザー (1974年没)
- アレクシス・ワイセンベルク (2012年没)
- ヤン・チヒョルト (1974年没)
- ヘルマン・ヘッセ (1962年没)