HISTORICAL PERSON · 1970年没

バートランド・ラッセル

イギリスの哲学者・論理学者・数学者。1950年にノーベル文学賞を受賞した。首相を務めたジョン・ラッセルの孫で、生涯に4度結婚した。

生涯
1970年没
死亡地
イギリス連邦(グウィネズ / Plas Penrhyn)
出生地
イギリス連邦(トレレッチ)
出典
世界地図
イギリス連邦(グウィネズ)

伝記

バートランド・ラッセルは、1872年5月18日に生まれたイギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家である。貴族のラッセル伯爵家の出身で、首相を2度務めた初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは祖父にあたる。名付け親は哲学者ジョン・スチュアート・ミルで、ミルはラッセルが生まれた翌年に亡くなったが、その著作は彼の生涯に大きな影響を与えた。貴族によくみられるように、正規の初等・中等教育を受けず、1890年にケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学し、その後しばらくケンブリッジ大学で教えた。ウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜いて親交を結び、『論理哲学論考』の出版などを支援した。

数学者、論理学者として出発した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、フレーゲは、数学は論理に帰着しうるという考えのもと、『算術の基本法則』を著した。1901年、ラッセルはこの本の体系にパラドックスを示せることを発見し、フレーゲに書簡を送った。これが「ラッセルのパラドックス」で、フレーゲは悲痛なコメントとともに、この手紙を第2巻に収録した。ラッセル自身も、ホワイトヘッドとともに、論理主義の立場から論理の上で数学を展開する事業に取り組んでおり、このパラドックスのために約2年間の停滞を余儀なくされた。このパラドックスは、「数学の危機」の震源となり、ヒルベルトの形式主義やブラウワーの直観主義が生まれるきっかけともなった。ラッセルは1903年に「階型理論」を発見して解決を試み、その努力は『数学原理』(1910年から1913年)として結実した。

哲学者としては、当初はケンブリッジを支配していたヘーゲルの影響が強かったが、20世紀初頭にG・E・ムーアとともにそこから離れ、独自の哲学を展開した。1905年の「表示について」では、記述理論を発表した。これは、「現代のフランスの王」のような、指示対象が存在しない語句を含む文を、存在者を仮定することなく解釈する手法である。晩年の『西洋哲学史』は、ペンシルベニアのバーンズ財団での講義のために書かれたもので、哲学は、哲学者の生きた政治的、社会的な環境と切り離せないという視点で貫かれている。1950年にノーベル文学賞を受賞した。

社会的な活動も活発だった。1916年には、平和運動や婦人解放運動に熱中したため、ケンブリッジ大学を解任された。1918年には、6か月間投獄されている。1920年5月から6月には、労働党代表団とともにソビエトロシアに滞在し、レーニンらと対談した。帰国後に著した『ロシア共産主義』で、ロシア革命は歴史的な英雄的事件であるが、失敗だったと述べた。宗教については、神の不可知論を唱える無神論者で、「わたしはなぜキリスト教徒ではないか」などで、宗教の基礎は、死や神秘的なものへの恐怖にあるとした。1931年に、祖父の跡を継いでいた兄が亡くなり、ラッセル伯爵位を継承した。生涯に4度結婚し、最後の結婚は80歳の時である。1938年に3度目の夫人とともにアメリカに移住し、1944年に帰国した。1955年7月には、核廃絶に対する共通の思いから親交のあったアインシュタインと、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表し、これがパグウォッシュ会議の開催に発展した。1961年には2度目の入獄をした。1970年2月2日、97歳で死去した。

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