HISTORICAL PERSON · 1970年没

シャルル・ド・ゴール

フランスの軍人・政治家で、第五共和政の初代大統領。ロンドンで自由フランスを樹立してレジスタンスと共闘し、アルジェリア独立の承認や核武装を進めた。

生涯
1970年没
死亡地
フランス共和国(オート=マルヌ県 / コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズ)
出生地
フランス共和国(リール)
出典
世界地図
フランス共和国(オート=マルヌ県)

伝記

シャルル・ド・ゴールは、1890年11月22日にフランス北部の工業都市リールで生まれた政治家、陸軍軍人で、第五共和政で最初の大統領となった人物である。父アンリはイエズス会学院の校長で歴史を教え、3つの博士号を持つ碩学で、熱心なカトリック教徒だった。祖父ジュリアンも著名な歴史学者で、ド・ゴールは幼いころから歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになった。長身痩躯の体格だったため、伝道師ではなく軍人の道を選んだという。16歳のときに書いたドイツ軍のフランス侵略を描く戯曲が、コンクールで一等に入賞した。

1909年9月にサン・シール陸軍士官学校に入学し、1912年に卒業して、のちにヴィシー政権の指導者となるペタンの歩兵連隊に少尉として配属された。第一次世界大戦では大尉として戦い、1916年のヴェルダン戦で捕虜となった。最も厳重な収容所の一つに入れられ、戦中に5回脱走を図ったが、いずれも連れ戻された。戦後はポーランドの軍事顧問として赴任し、ポーランド・ソビエト戦争で活躍して、勲章を授与された。1921年に帰国し、サン・シールで軍事史を教えて、同年にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚した。1934年に『機甲化軍にむけて』、1938年に『フランスとその軍隊』を著した。

1939年9月に第二次世界大戦が始まり、1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻した。ドイツは装甲部隊で「マジノ線」を迂回し、フランス軍は1か月で敗れた。ド・ゴールは新編の第4機甲師団長に任命され、戦車を集中して運用した。6月、レノー内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、49歳で最年少の少将となった。英国の協力を得るためロンドンに飛んだが、内閣は休戦派の圧力で総辞職した。6月15日にパリが陥落すると、ロンドンに亡命して「自由フランス」を結成した。ラジオ放送を通じて、フランス国民にドイツへの抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼びかけた。1941年にはジャン・ムーランと会見して、レジスタンスを統一するため、ムーランを極秘にフランス本土へ送った。
1944年6月にノルマンディー上陸作戦が成功すると、8月25日にパリを解放し、翌日にはシャンゼリゼ通りで凱旋パレードを行った。臨時政府の主席に選ばれたが、他の指導者や政党の意見を無視しがちで、社会党と共産党から批判された。1946年1月、軍事費を削る予算案に反発して突如辞任した。第四共和政憲法が自らの構想を反映しなかったため、1947年にフランス国民連合を結成したが、1952年に解体し、1955年に公的生活から引退すると宣言した。

1958年5月、アルジェリアの植民者が駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻すと、首相と大統領コティは、軍に顔の利くド・ゴールに出馬を要請した。6月1日に6か月間の全権委任を得て首相となり、4日にアルジェで「私は諸君を理解した」と叫んで反乱を鎮めた。大統領権限を強化した新憲法は、9月の国民投票で80パーセント近い賛成を得て、10月に公布された。ド・ゴールは第五共和政の初代大統領に就任した。1959年にはアルジェリア人の民族自決を認めると発言した。植民者は反発して反乱を起こしたが、鎮圧され、1962年にアルジェリアの独立を承認した。この間、右翼組織のテロの標的となり、1962年8月には機関銃で銃撃されながら九死に一生を得た。1960年2月にはサハラ砂漠で原爆実験に成功し、アメリカ主導の北大西洋条約機構には批判的な態度を取って、独自路線を進めた。1969年4月28日に大統領を退き、1970年11月9日に没した。

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