伝記
ヒギヌスは、カトリック教会の公式の歴史叙述で、136年頃から140年ないし142年頃にローマ司教、すなわちローマ教皇の座にあったとされる人物である。生年は不明で、没年は142年頃と伝えられる。ギリシアのアテナイの生まれで、おそらくギリシア系であった。カトリック教会の聖人で、記念日は1月11日とされてきた。名は写本によりヒュギヌス、イギヌス、エゲヌス、ウィギヌスなど、さまざまな形で記録されている。『教皇の書』によれば、教皇に就く前に哲学を学んだ人物で、同じ時代に著述家で殉教者となったナブルスのユスティノスがしたように、アテナイを離れてローマへ移ったと伝わる。
在位の時期と期間については、伝承によって食い違いが大きく、長い議論を呼んできた。エウセビオスは、アントニヌス・ピウス帝の治世の第1年、すなわち138年に就任し、4年間その座にあったと記し、その『年代記』では142年に後継者が就任したとする。『教皇の書』も在位を4年3か月4日とするが、これが依拠した『リベリウス目録』は12年3か月6日と記している。しかも両方の伝統は、彼が執政官の名で示される149年に没したと述べる。ただし、この日付の根拠となった354年の年代記は、この点ではきわめて信頼性が低いとされる。ローマ司教の何代目にあたるかも、エウセビオスとエイレナイオスとで数え方が異なり、これは前者がペトロから、後者がリヌスから数え始めるためではないかとされる。確かなことは分かっていない。
伝承によれば、彼は在位中に聖職者のそれぞれの順位と権限を定め、教会内の位階の区別を整えた。『教皇の書』は、彼が下級の聖職階を設け、司祭と助祭の役割を分け、副助祭という役職を確立したとするが、信頼できる情報が実際にあるわけではない。3回の叙階で司祭15人、助祭5人、司教6人を叙階したとも伝わる。また、洗礼の際に新生児を助ける代父母の制度を設けたこと、すべての教会は聖別されねばならないと定めたことも彼の事績とされる。ユダヤ暦のニサン月14日に復活祭を祝うことを、キリスト教徒に認めたローマ司教の一人でもあるという。
在位中には、エイレナイオスによれば、グノーシス派のウァレンティノスがローマに来て、後継の教皇アニケトゥスの選出まで留まった。ただし、彼はすでに前任のテレスフォルスの時代にローマにいたとする伝えもある。同じ頃に、別のグノーシス派ケルドンもローマにいた。彼は誤りを告白して異端を捨て、教会に復帰を許されながら、再び逸脱して追放されたという。
彼はマルクス・アウレリウス帝の下での殉教者とされてきたが、それを裏づける証拠はない。殉教者を表す決まり文句を多用する『教皇の書』も、この点を記していない。1969年に改訂されたローマの典礼暦から彼が外されたのも、殉教も没日も証明できないためである。伝承では、ヴァティカンの丘のペトロの傍らに葬られ、その後3日間空位が続いた。『ヒエロニュムス殉教録』に見えるエゲヌスまたはエウゲヌスという名は、しばしば彼と同一視される。彼の名で出された教令は偽作とされる。在位はハドリアヌス帝の霊廟、今日のサンタンジェロ城が建設されていた時期にあたる。
同じ年に亡くなった人物
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