伝記
マリー・ド・ブルゴーニュは、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国最後の君主で、名目上のブルゴーニュ女公(在位1477年〜1482年)である。のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の妻にあたる。領民からは「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われたといい、富貴公とも呼ばれた。1457年2月13日、ブリュッセルのクーデンベルグ宮殿で、当時シャロレー伯だったシャルル突進公と、その妻イザベル・ド・ブルボンの間に生まれた。宮廷年代記作者シャストランによれば、その誕生の際には晴れた夕空から雷鳴が響いたという。代父は、当時ブルゴーニュに亡命していたフランス王太子ルイで、自身の母マリー・ダンジューにちなんで名を付けた。祖父の善良公は、女児と知って洗礼式に出なかったと伝えられるが、祖母イザベル・ド・ポルテュガルは孫娘の誕生を喜んだ。養育係となったジャンヌ・ド・クリトは、のちも彼女の親しい友であり続けた。
シャルルの唯一の子であり、ヨーロッパ有数の経済力と成熟した文化を誇る公国のただ一人の後継者だったため、恵まれた少女時代を送った。生母とは早くに死別したが、義母マーガレット・オブ・ヨークとの仲は極めて良好で、愛情を込めて養育されたという。1467年に父が公位を継ぐと、男子のいない父の推定相続人となり、その結婚相手には多くの王侯が名乗りを上げた。最初の申し込みは彼女がわずか5歳のときで、のちのアラゴン王フェルナンド2世との縁談だった。ルイ11世も、自身の子シャルル(のちのシャルル8世)との結婚を望んだが、この王太子はマリーより13歳年下だった。
1477年1月、父がナンシーの戦いで陣没すると、マリーは19歳で遺領の全体を継承しようとしたが、公国内では内乱が起きた。フランス王ルイ11世はこの機に乗じ、ブルゴーニュ公爵領やブルゴーニュ伯領などを奪った。ネーデルラントやフランドルでも貴族が権利の拡大をはかり、ルイ11世と結んだ貴族や大商人たちは、都市の自治の承認と王太子との結婚をマリーに迫った。マリーはこれを拒んで孤立し、幽閉同然の暮らしに追いやられた。1477年2月、大特許状に署名させられて、ネーデルラントに大幅な特権を与えた。義母マルグリットの助言を得て、父の定めた婚約者マクシミリアンに結婚、すなわち救援を要請し、同年8月19日にガンの聖バボ教会で挙式した。
政略結婚ではあったが、夫妻は共に狩りに出かけるなど仲睦まじかったという。この結婚はフランスとハプスブルク家の長い対立の出発点となった。二人の間にはフィリップとマルグリットが生まれ、次男フランソワは夭折した。マリーは運動好きで、狩りや乗馬、スケートを好んだが、その乗馬が命取りとなる。第4子を身ごもっていた1482年3月、落馬事故で流産したうえ大怪我を負い、約3週間後の3月27日に死去した。死に際に、フィリップとマルグリットを公国の相続人に指定し、フィリップが15歳になるまで夫を後見人とする遺言を残し、家臣には夫に仕えるよう言い残した。しかしその意志は守られず、公国は再び内乱に巻き込まれた。遺体はブリュージュの聖母教会に葬られ、のちにマクシミリアンが亡くなると、その心臓もマリーの墓に納められた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1482年没)
- フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ (1482年没)
- ルクレツィア・トルナブオーニ (1482年没)
- ルイ・ド・サヴォワ (ジュネーヴ伯) (1482年没)
- メヒティルト・フォン・デア・プファルツ (1482年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘラルト・ダヴィト (1523年没)
- Constant Joacim (1979年没)
- アヒレ・ファン・アッケル (1975年没)
- ポール・デルヴォー (1994年没)
- パトリック・セルキュ (2019年没)