伝記
クリスチャン1世は、1426年2月、北ドイツのオルデンブルクで、オルデンブルク伯ディートリヒ(幸運伯、1390年-1440年)と、その二番目の妻であるホルシュタイン伯ゲルハルト6世の娘ハイルヴィヒ(1398年-1436年)の長男として生まれた。二人の弟モーリッツとゲルハルト、妹アーデルハイトがいた。父方のオルデンブルク家は、ヴェーザー川の西に根を張る伯爵家で、オルデンブルクとデルメンホルストの二つの城を拠点に、近隣のフリース人の地域へ支配を広げてきた。父が「幸運伯」と呼ばれたのは、一族の領土をまとめて拡大したためだとされる。母方はシャウエンブルク家で、ホルシュタイン伯領を治めていた。クリスチャンは父方・母方の双方を通じてデンマーク王家の血を引き、母を通じてエーリク5世の子孫でもあったという。
少年期のことはあまり知られていない。1440年に父が死ぬと、クリスチャンは弟たちとともにオルデンブルク伯を共同で継ぎ、しばらく皇帝の宮廷に滞在した。将来にとってより重要だったのは、母の兄である子のないアドルフ公が教育を引き受けたことである。公は彼を自分の領地の継承者にしようとして、シュレースヴィヒ公位の後継者としても選出させることに成功した。クリスチャンはこの叔父のもとで、のちに大いに役立つ政治の経験を積んだ。
1448年、デンマーク王クリストファ・ア・バイエルンが世継ぎのないまま急死した。1397年から続いてきたカルマル同盟の3王国は王を失い、同盟は分裂して、デンマークとスウェーデンが離れ、ノルウェーの帰属も不透明になった。クリスチャンはデンマーク王に選ばれ、続いて1450年にノルウェー王となった。クリストファの宰相カール・クヌートソンは勝手にスウェーデンとノルウェーの王に即位していたが、クリスチャンはこれを打ち破り、王座を奪った。1457年にスウェーデン王にもなったが、その治世は1464年までと短く、それに先立つ摂政はイェンス・ベンクトソン・オクセンシェルナとエーリク・アクセルソン・トットで、その後を摂政ケティル・カールソン・ヴァーサが継いだ。カールはその後もスウェーデン王を称し続け、クリスチャンの長男ハンスがスウェーデン王に即位するのは1497年になる。
1449年、クリスチャンはコペンハーゲンで、クリストファの未亡人ドロテア(ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯ヨハンの娘)と結婚し、5人の子をもうけた。長男オラフと次男クヌーズは幼くして死んだ。三男ハンスは父の死後にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの王となった。娘マルグレーテは1469年にスコットランド王ジェームズ3世の妃となり、ジェームズ4世の母となり、1488年以降のスコットランド王はみな彼女の子孫である。その玄孫ジェームズ6世は1603年にイングランド王も兼ね、のちのグレートブリテンおよび連合王国の君主へつながった。末子フレゼリク1世は、甥のクリスチャン2世が亡命した後、1523年から1533年までデンマークとノルウェーの王を務めた。クリスチャン2世はハンスの子で、その治世にカルマル同盟は終わりを迎えた。クリスチャン1世は1481年5月21日にコペンハーゲンで死去し、オルデンブルク朝の祖となった。エリザベス2世とフィリップ王配の子孫の男系血統の始祖にもあたるとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオ (1481年)
- フランチェスコ・フィレルフォ (1481年)
- カラマニ・メフメト・パシャ (1481年没)
- Mahmud Gawan (1481年)
- ルカ・デッラ・ロッビア (1481年没)
同じ地域に関係する人物
- Carl Edvard Rotwitt (1860年没)
- カール・ニールセン (1931年没)
- ローランス・フレーリク (1908年没)
- フレデリク5世 (デンマーク王) (1766年没)
- カール・テオドア・ドライヤー (1968年没)