HISTORICAL PERSON · 1969年没

フランツ・フォン・パーペン

ドイツの政治家・外交官。1932年に首相を務め、ヒトラーが首相になれるよう尽力してナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。ヒトラー内閣では副首相となった。

生涯
1969年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / ザースバッハ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ヴェルル)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

フランツ・フォン・パーペンは、1879年10月29日にヴェストファーレン地方のヴェルルで、製塩業で富をなした名家の一つに生まれたドイツの政治家・外交官・軍人で、爵位は男爵である。ヴェルルの多くの住民と同じカトリック教徒だった。両親の希望で陸軍幼年学校に入り、ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年に大尉に昇進した。ここでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合った。巧みな馬術で名声を得ており、1905年には製陶業で有名なビレロイ・ボッホ社の創業家の娘と結婚し、工場の一つを相続して、巨大な経済力を得た。一女をもうけている。

第一次世界大戦中の1915年まで、アメリカ大使館付きの武官を務め、のちの指導者フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーの知遇を得た。国内で諜報活動に従事し、兼轄国のメキシコをドイツ寄りにすることにも努めた。1916年に破壊工作に関与したとされてアメリカ政府に国外追放され、不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受けて、彼の築いたドイツの諜報網が暴露された。帰国後は皇帝から鉄十字章を授かり、西部戦線で大隊長となった。その後オスマン帝国に派遣され、パレスチナ戦線の第4軍で参謀長を務め、ここでヨアヒム・フォン・リッベントロップと知り合った。帰路ではのちの大統領ヒンデンブルク元帥とも同道している。敗戦後はヴァイマル共和国の国軍で働くことをいさぎよしとせず、1919年に中佐で退役した。

カトリック教徒であることから中央党に入党し、1920年にカトリック系労働組合の委員長となった。1921年にプロイセン州議会議員に当選すると、与党にいながら社民党首班の政権を支持せず、不信任案の提出を繰り返した。1925年の大統領選挙では、自党の候補ではなくヒンデンブルクを公然と支持し、党は彼を除名しようとしたが、党機関紙の大株主であったため果たせなかった。1932年5月30日にブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルクの側近シュライヒャーが、ほとんど無名だった彼を後継の首相に推薦した。操り人形にしやすいと判断されたからだという。パーペンは中央党の党首に組閣要請を受けないと約束しながら、ヒンデンブルクと会うとこれを反故にして首相職に飛びつき、6月1日に任じられて、中央党から除名された。閣僚9人のうち7人が貴族出身で、国民の支持はほとんどなく、「男爵内閣」と渾名された。

6月にはブリューニング内閣が出したナチス突撃隊などの禁止命令を取り消した。7月20日にはプロイセン州政府の閣僚を招集し、首相ブラウンらに解任を申し渡して、ベルリンを戒厳体制下に置いた。これがプロイセン・クーデターである。パーペンはプロイセン総督に就任したが、このやり方は、後のナチスの地方政府掌握の前例として非難されている。7月31日の総選挙でナチ党は第一党となり、シュライヒャーはパーペンに無断でヒトラーと面会して、副首相としての入閣を求めたが、ヒトラーは首相職を要求した。パーペンは閣僚職を提供することでナチ党を取り込めると考えていた。内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解したが、その後パーペンはヒトラーに接近し、彼が首相になれるよう尽力して、1933年のヒトラー内閣で副首相兼プロイセン州首相となった。しかし「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。1969年5月2日に没した。

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